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「悲劇の大名」 松平容保

今日12月5日は、会津藩第9代藩主で、京都守護職として幕末の激動の6年間を京都の守護にあたるものの、王政復古後の「戊辰戦争」に敗れた松平容保(まつだいら かたもり)が、1893年に亡くなった日です。

1836年、美濃国高須藩主の6男として江戸藩邸に生まれた容保は、1846年に叔父の会津藩8代藩主の養子となり、1852年に23万石の家督を継ぎました。ペリーが再度来航した年のことで、容保は開国やむなしときっぱり明言するほど、傑物としての評価が高まっていきました。1860年、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の後に幕府に招かれた容保は、攘夷にはやる水戸藩と幕府を和解させることにつとめるうち、幕政に参加するようになりました。

1862年9月、越前藩主松平春嶽らの強い勧めで、京都守護職に就任した容保は、会津藩兵を率いて上洛しました。当時の京都は、尊王攘夷をとなえる志士たちが潜入し、公家たちをあおりながら天誅(てんちゅう)をくりかえすなど、無警察に近い状態でした。容保は、孝明天皇に謁見して朝廷との交渉を行ういっぽう、浪士の行動部隊「新撰組」や「京都見廻り隊」を組織して配下に使い、上洛した14代将軍徳川家茂の警護や京都市内の治安維持にあたりました。

また会津藩は、幕府の主張する公武合体派の一員として、薩摩藩と結んで反幕派の尊王攘夷と敵対しました。1863年、尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件「八月十八日の政変」では、長州藩の勢力を排除したことで、孝明天皇からその働きを称賛されたことは、容保の誇りでした。しかし、1866年末の天皇の死去により、後ろ盾を失った容保は、志士たちのうらみを一身に受けることになってしまいます。そして1867年、坂本龍馬らの仲立ちで薩摩と長州が手を結び、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅すると、京都守護職も廃止されてしまいました。

「鳥羽・伏見の戦」に敗れた慶喜が、新政府に対して恭順を行うと、江戸城など旧幕臣の間では恭順派と抗戦派が対立し、会津藩内でも同じような対立が起こりました。賊の汚名を着せられた容保は、会津へ帰国し家督を養子に譲り謹慎し、籠城しました。しかし、あまりにも倒幕派を弾圧してきたために、新政府軍の包囲は厳しく、家中の主戦論者をおさえることができず、抗戦することになってしまいました。この「会津戦争」で、16〜17歳の若者で編成されて自刃した「白虎隊の悲劇」は有名です。彼らは前線で必死に戦うものの、落ちのびた飯盛山で戦闘の様子をながめていると、なんと市中が火の海になっています。まだ鶴ヶ城は焼けてはいなかったものの、落城したと勘違いし、もはやこれまでとお互いを刺しあったのでした。

降伏後の容保は、鳥取藩などに預けられ孤独な余生を送りましたが、59歳で亡くなるまで「戊辰戦争」のことを語ることは、いっさいなかったということです。


「12月5日にあった主なできごと」

1791年 モーツァルト死去…ハイドンやベートーべンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人であるオーストリアの作曲家モーツァルトが亡くなりました。

1901年 ディズニー誕生…「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが生まれました。

1904年 日本軍が旅順203高地占領…日露戦争で日本軍は、ロシア軍の要塞があった旅順の203高地を3度目の総攻撃で占領に成功、戦局はいっきに日本軍が有利なものになりました。

投稿日:2012年12月05日(水) 05:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)