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「パリの人気画家」 藤田嗣治

今日11月27日は、エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家として活躍した藤田嗣治(ふじた つぐはる)が、1886年に生れた日です。

1886年、東京・牛込の医者の家に生まれた藤田嗣治は、1910年に東京美術学校(現・東京芸術大)西洋画科を卒業後、精力的に展覧会などに出品しましたが、当時黒田清輝らの勢力が支配的だった文展などでは全て落選してしまいました。

1913年に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた藤田は、第1次世界大戦が勃発してもパリにとどまり、モジリアーニやピカソらと交流を深めながら研さんを続けるうち、エコール・ド・パリの一員として評価されはじめました。やがて、シェロン画廊で開催された最初の個展で、浮世絵の技法を油彩画に取り入れた「乳白色の肌」とよばれる独自の技法で描いた裸婦像やネコの絵が、アンドレ・サルモンという当時の著名な美術評論家に絶賛されると、いちやく注目されるようになり、1919年には、サロンに出品した6点すべてが入選、翌年もキキの裸像として有名になる作品を出品すると、一連の細密描法は高値で売買されるようになり、パリの人気を独占する勢いとなりました。

1921年にはサロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、フジタの名はフランスでは知らぬものはいないほどの人気となり、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章が贈られ、1926年には2人の裸婦を描いた『友情』はフランス政府の買上げとなり、エコール・ド・パリの画家として、国際画壇で重きをなしました。

1941年に第2次世界大戦を避けて帰国すると、軍部の依頼を受けて仏印(フランス領インドネシア)やマレー半島をまわって、数多くの戦争画を描きました。そのために、戦後は画壇から非難され、藤田の日本嫌いを助長させました。(その後、藤田のすぐれた描写力で記録された戦争画は、1970年にアメリカから返還され、東京国立近代美術館に収蔵されています)

1949年には日本を脱出し、アメリカを経由して再びパリにもどり、1955年にはフランス国籍をとって、レオナール・フジタと名乗って帰化しました。1966年には、ランスのノートルダム寺院の礼拝堂のフレスコ壁画の制作に没頭し、情熱的に生きた晩年を飾り、1968年にスイスのチューリッヒで死去しました。

なお、藤田のたくさんの絵などは、オンライン「画像検索」で見ることができます。また、藤田の画集が日本で出版されないのは、最後まで日本画壇を許さなかったためだといわれています。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が、生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約が、この日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

1959年 デモ隊2万人が国会構内に突入…1951年に締結された日米安全保障条約(安保)は1960年に改定がおこなわれることになり、アメリカ軍の日本駐留・配備を続けること、その活動範囲を極東全域に拡大するといった内容でした。この日、改定に反対する学生や市民らが国会周辺に押しよせ、デモ隊2万人余りが国会構内に突入しました。

投稿日:2012年11月27日(火) 05:31

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)