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「蛙の詩」 の草野心平

今日11月12日は、生涯にわたり蛙をテーマとした詩を書きつづけた詩人・草野心平(くさの しんぺい)が、1988年に亡くなった日です。草野は、宮沢賢治の才能を高く評価し、世に送り出したことでも知られています。

1903年、事業家の5人兄弟の次男として福島県上小川村(現・いわき市)に生まれた草野心平は、家の事情で心平だけが祖父母に預けられて育ちました。1919年、旧制磐城中学を4年で中退したのち上京、慶応普通科に編入しましたが、海外に活路を求めて英語と中国語を学んだ後、1921年中国の広東にある嶺南大学に進学しました。この頃から病死した兄の民平に刺激されて詩作をはじめ、1923年には二人の詩をおさめた『廃園の喇叭(らっぱ)』を自費出版しています。1925年におこった排日運動によって帰国すると、本格的に詩作を開始し、詩の雑誌『銅鑼(どら)』を主催しました。

1928年、第1詩集『第百階級』を刊行。そのほとんどが蛙をテーマにしたもので、蛙の姿に労働者の活力をなぞらえた作品は、詩壇に大きな衝撃を与えました。さらに、1938年に刊行した詩集『蛙』は、第1詩集以後の蛙の詩18篇おさめたもので、新聞社の校正係、焼き鳥屋、貸本屋など職業を転々としてきた、みずからの体験を蛙の姿に生かした作品が多く、まさに蛙の中に「人間」を見ようとする意気ごみが感じられます。

草野の残した詩集には、『富士山』『天』『日本砂漠』などがありますが、何といっても上記2作を含め、蛙をテーマにした作品群でしょう。1950年には『定本蛙』で第1回読売文学賞を受賞したほか、蛙に関する全作品を収録した『蛙の全体』もあります。

なお、草野は早くから、宮沢賢治を高く評価しており、その思いいれは半端なものでなく、「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。彼の存在は私に力を与える」と記し、賢治の死後まもない1933年12月には、「最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線の上の一つの類まれなる大光芒で宮沢賢治があることはもう断じて誰の異義もはさめない一つのガンとした現実である」と追悼文に記しています。

なお、1987年には文化勲章を受章。没後の1998年には、心平の功績が称えられ、福島県いわき市立「草野心平記念文学館」が開館しています。


「11月12日にあった主なできごと」

1840年 ロダン誕生…19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残したロダンが生まれました。

1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている孫文が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流の末アメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した中浜万次郎(ジョン万次郎)が、亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機 ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

投稿日:2012年11月12日(月) 05:11

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)