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新劇運動の先駆者・島村抱月

今日11月5日は、新劇運動をリードする劇団「芸術座」を結成するなど、評論家・劇作家として活躍した島村抱月(しまむら ほうげつ)が、1918年に亡くなった日です。

1871年、島根県(現・浜田市)に鉱石の精製業を営む家の長男に生れた島村抱月(本名・佐々山滝太郎)でしたが、子どものころに父の事業が失敗、小学校は首席で卒業したものの上級学校に行けませんでした。それを惜しんだ松江地検の島村検事が養子とした上に資金援助をしてくれたことで、上京して東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学、坪内逍遥らに学びました。卒業後は、坪内のもとで「早稲田文学」の編集にたずさわり、多くの評論を書きました。1898年には読売新聞社会部主任をへて、母校文学部の講師となっています。

1902年から3年間、母校の海外留学生としてイギリスとドイツに留学し、心理学、美学、演劇を学んで帰国すると、文学部教授として美学や文芸史を教えながら「早稲田文学」の編集をおこない、自然主義文学の近代化をおし進めました。1906年には坪内とともに文芸協会を設立し、1909年には講義録や論文を集大成した評論集『近代文芸之研究』を出版するいっぽう、新劇運動にも参加して、ヨーロッパの近代劇をとりいれることにつとめました。

ところが1913年、女優の松井須磨子との恋愛が問題視された抱月は、母校や恩師の坪内と決別し、松井とともに劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成しました。まもなく、抱月が翻訳したイプセンの『人形の家』を全国巡業するようになり、1914年にはトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』が評判になり、通算で444回も公演を重ねるほどでした。とくに劇『復活』の中で松井が歌う「カチューシャの唄」<♪ カチューシャ 可愛や 別れのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを ララかけましょか> は大ヒットとなり、歌詞の「カチューシャ 可愛や 別れのつらさ」は爆発的な流行語となりました。

翌1915年にはツルゲーネフの『その前夜』を、1917年にはトルストイの『生ける屍(いかばね)』を上演。これらも劇中歌の『ゴンドラの唄』<♪ いのちみじかし 恋せよおとめ あかきくちびる あせぬまに 熱き血潮の 冷えぬまに あすの月日の ないものを>『さすらいの唄』<行こか 戻ろか オーロラの下を ロシアは北国 はてしらず> をヒットさせました。こうして新劇の大衆化に大きく貢献した抱月でしたが、スペイン風邪にかかって急逝してしまいました。松井は抱月の死後も芸術座の公演を続けましたが、抱月の死の2か月後、後を追うように自殺したため、座も解散を余儀なくさせられました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、島村抱月翻訳による「人形の家」とその解説などを読むことができます。


「11月5日にあった主なできごと」

1688年 名誉革命起こる…国王ジェームズ2世に反発したイギリス議会はクーデターを起こし、次の国王としてウイリアム3世(オランダ総督オレンジ公)とメアリー2世夫妻を招き、夫妻は軍隊を率いてイギリスへ上陸しました。ジェームズ2世はフランスに亡命し、流血のないまま新王が即位したため、「名誉革命」といわれています。

1922年 ツタンカーメン王墓発見…イギリスの考古学者カーターが、古代エジプト18王朝(BC1340年頃)18歳で亡くなったツタンカーメン王の墓を発見しました。3000年以上の歴史を経てもほとんど盗掘を受けておらず、王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめ、副葬品の数々をほぼ完全な形で出土しました。そのほとんどは「カイロ博物館」に展示されています。

投稿日:2012年11月05日(月) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)