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『動物記』 のシートン

今日10月23日は、イギリス出身の博物学者・作家でボーイスカウト運動にも貢献したシートンが、1946年に亡くなった日です。

アーネスト・シートンは1860年、イングランド北東部にある港町サウスシールズに12人兄弟の末っ子として生まれました。商人だった父の事業の失敗から、シートンが5歳の時にカナダに移住し、オンタリオ州のリンゼーの町から6キロも離れた森林で、開拓者の生活を始めました。シートンにとっての開拓地での暮らしは、胸のワクワクするような素晴らしい毎日でした。ところが4年後に一家はトロントに移りました。荒々しい開拓の仕事が父母にはつらいものだったためです。シートンは公立学校へ通いましたが、自然あふれるリンゼイでのさまざまな鳥や動物たちとふれた日々が忘れられません。14歳のときには、トロント郊外にみつけた原始林に、週末ごとにでかけては自分だけの秘密の小屋を建てて過ごすほどでした。やがて高校を卒業したシートンは、博物学者になる夢をふくらませていました。しかし、厳しい父親の反対にあい、画家の道を歩み始めました。

1879年、オンタリオ美術学校を優秀な成績で卒業すると、さらに絵の勉強をするためにイギリスに渡り、絵画の名門ロイヤル・アカデミー美術学校に入学しました。この地でシートンは、ふたたび博物学者を志すきっかけとなる出来ごとがありました。世界一の博物館といわれる「大英博物館」との出会いです。はじめは、ロイヤル・アカデミーの入学試験の課題だった絵を描くために、名画を見に行くためでしたが、そのうち、博物館の館内には図書館もあり、世界中の博物学の図書がたくさんそろっていたのがわかりました。こうしてシートンはそれから毎日のように、昼は博物館で絵を描き、夜は10時に図書室が閉館するまで、博物学の本を読みあさりました。しかしその生活も長くは続きませんでした。資金がつづかず、食事も満足にとれなかったために身体をこわしてしまったためです。

トロントに帰郷後、まもなく体調を回復したシートンは、カナダ西部で農場を経営する兄のところへ行き、農場の手伝いをしながら、森林や草原に現われるさまざまな動物を観察してこまかく記録するなど1年半ほどを過ごしました。1883年には、ニューヨークへ出て、出版社に勤めながら動物の絵を書く仕事をしました。絵は好評でしたが、都会にいると大自然への憧れを抑えることができず、カナダにもどってしまいました。

1890年、動物画家として生活する自信をえたシートンは、さらなる絵の勉強をするためにパリへ出て、動物園に通い続けてオオカミの絵を描き、その絵は展覧会に入賞するほどでした。しかし、2年もすると、また大自然が恋しくなってまたカナダへ帰ってきてから1年後の1893年、33歳のシートンへ、ニューヨークで知り合ったアメリカの実業家から「牧場の牛がオオカミに襲われて困っているので動物に詳しいあなたに助けて欲しい」という手紙が来ました。ニューメキシコへ向かったシートンは、5年かかってもつかまらないというオオカミ王ロボと出会いました。4か月後にようやくロボを捕獲したシートンは、偉大なロボを讃えて、その生涯を物語にしたのでした。

1896年、ニューヨークで生活を始めたシートンは、1898年に、数年間雑誌に発表した物語のうち8編(「オオカミ王ロボ」「銀の星」「ギザ耳ウサギ」「ビンゴ」「スプリングフィールドのキツネ」「だく足のマスタング」「ワリー」「赤襟巻」)を集め、第一作品集『私の知る野生動物』を刊行すると、大評判となりました。シートンの名前は全米で知られるようになり、続いて出版した『ハイイログマの生涯』『動物の英雄たち』なども大評判となって、アメリカ各地で講演依頼が殺到するほどでした。

さらにシートンは、少年たちに野外生活の楽しさを体験させたいと、ニューヨークのはずれにある広い土地を手に入れ、インディアン団を作りました。この組織は、のちにボーイスカウト団に発展し、長い間この委員会の議長をつとめるなど、大自然と動物、そして子どもたちを友としながら、86年の生涯を閉じました。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した政治家 西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に破れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、日本の高度成長にストップがかかる事態に陥りました。

投稿日:2012年10月23日(火) 05:46

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)