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「傷ついた魂の詩人」 中原中也

今日10月22日は、詩集『山羊(やぎ)の歌』『在りし日の歌』など、350編もの詩を残して夭折した詩人・中原中也(なかはら ちゅうや)が、1937年に亡くなった日です。

1907年、山口市湯田温泉に陸軍軍医の子として生まれた中也は、幼い頃は父の転任のため広島、金沢に移り住みました。父が山口の医院を受け継ぐことになったため、1918年に山口師範小学校に転校。成績優秀で、すぐれた文才を小学時代から現わし、雑誌『婦人画報』などに短歌が採用されるほどでした。

ところが、旧制山口中学に入学後、友人との共著で歌集を著わすなど文学にのめりこみすぎたために落第、1923年に京都の立命館中学に転入学しました。このころから、高橋新吉の影響を受けて、ダダイズムに傾倒するようになるいっぽう、この年の冬に劇団女優の長谷川泰子と知りあい、まもなく同棲することになりました。また富永太郎と出会って、ランボーやボードレールなどフランス象徴詩への興味を抱きはじめ、1925年3月には泰子とともに上京しました。のちに評論家として大成する小林秀雄と知り合いましたが、11月に泰子が小林と同棲するという事件がおきたり、富永太郎が病死するなど深い傷を負ったのでした。

それ以後の中也の心は詩作でいっぱいになり、詩の世界ではだれにも負けないという自信がめばえてきました。1926年に「朝の歌」によって詩人としての方向性を自覚すると、河上徹太郎や大岡昇平らと交友しながらに同人誌『白痴群』を1929年に創刊し、翌年6月に廃刊となるまでに「寒い夜の自画像」「妹よ」「汚れっちまった悲しみに」など、傷ついた青春の魂の詩を発表し続けました。1934年には40編もの詩を収録した処女詩集『山羊の歌』を自費出版すると、少数ではあっても広く詩を愛する人々に認められるに至りました。さらに『ランボオ詩集』を翻訳出版するなど、フランスの詩人の紹介にもつとめました。

やがて、小林秀雄らが中心となっていた「文学界」や「歴程」などに「一つのメルヘン」「月の光」など次々と作品を発表することで、詩壇での評価を高めていきましたが、1936年11月に結婚後に生れた長男が死去したことで精神的な変調をきたして入院してしまいました。1937年2月に退院後は鎌倉で静養しながら、第2詩集の原稿を整理し、出版を小林秀雄に託して帰郷を決意しました。ところが脳膜炎を発症し、30歳で急死してしまいました。この第2詩集は、死後『在りし日の歌』として刊行されました。

わが国の文学史上に大きな足跡を残した中也でしたが、生前は、ごく一部の人々が評価をするのみで、志半ばにして異郷の地で亡くなりましたが、その名声は死後になって高まり、各社から出版された詩集や全集は数十点に及びます。今や近代日本文学を代表する叙情詩人として、ゆるぎない地位を得ているといってよいでしょう。1994年には、山口市湯田温泉の生家跡地に「中原中也記念館」が開館しています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、中也の代表詩集『山羊の歌』『在りし日の歌』の他、翻訳詩『ランボー詩集』や評論など21編を読むことができます。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。

1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

投稿日:2012年10月22日(月) 05:09

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)