今日10月18日は、中国・北宋期の儒学者・歴史家・政治家の司馬光(しば こう)が、1019年に生れた日です。『資治通鑑(しじつがん)』という、古代の戦国時代(BC403年)から五代末期(959年)まで1362年間の中国の歴史を294巻にまとめた通史を著した人物で、その主張は儒学に受け継がれ、水戸学などわが国にも大きな影響を与えました。
現在の山西省に役人の子として生れた司馬光は、幼少のころから才能にめぐまれて育ちました。少年時代に大きな水甕に落ちておぼれかかった友人を、とっさに石を投げこんで甕をこわし、命を救ったという逸話をのこしているほどです。
1038年に役人となるための試験「進士」に合格すると、20年ほど地方官となって各地で勤務後、中央政界の官職につき、王安石とともに、若手の政治家として期待されるようになりました。
しかし1067年に、神宗が即位すると、王安石を起用して「新法」という改革を断行すると、王安石が官僚の既得権をとりのぞいて政治の一新を図りました。それに反対をとなえたことで司馬光は政界を退き、洛陽で隠居生活を送ることになりました。洛陽での19年間は、かねてから構想していた『資治通鑑』の執筆に従事しますが、その間、神宗による国家の全面的な援助と、当代一流のスタッフの協力を得て、司馬遷の『史記』以来の壮大な歴史書を、1084年に完成させました。
1085年に神宗が亡くなり、哲宗が10歳で即位すると、『資治通鑑』によって人気をえた司馬光は、宰相となって中央に復帰しました。着任するやライバルだった王安石の「新法」を全面的に廃止し、すべて「新法」実施以前の法にもどそうと画策しましたが、余りの極端な手法に政治混乱をおこし、在任8か月で病死してしまいました。
なお、『資治通鑑』という名称は、「政治に資益するところがあり、天子の鏡とするに足る」という意味で、神宗が命名したものです。
「10月18日にあった主なできごと」
1866年 シーボルト死去…江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが亡くなりました。シーボルトは、すぐれた西洋医学を広めたものの、1829年に帰国の際、禁じられたた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、江戸幕府から国外追放を申し渡されました。(シーボルト事件)
1881年 日本初の政党…国会開設をを求めていた自由民権派は、板垣退助を党首に選び、日本初の全国組織による政党「自由党」が誕生しました。
1931年 エジソン死去…映画、レコード、電信機、電話機、電球、蓄電池など、生涯におよそ1300もの発明をしたアメリカの発明家・事業家のエジソンが亡くなりました。