今日10月11日は、季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」をよんだ種田山頭火(たねだ さんとうか)が、1940年に亡くなった日です。
種田山頭火(本名・正一)は、1882年に山口県防府市の大地主の家に生れました。村の助役を務めていた父でしたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になるような人で、これに苦しんだ母は自宅の井戸に身を投げて自殺、10歳の山頭火の心に深い傷が残りました。
旧制山口中学(現・防府高校)を主席で卒業した山頭火は、早稲田大学文学部に入学するものの神経症のため中退して帰省、療養のかたわら家業となった造り酒屋を手伝いました。そのかたわら、「山頭火」を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始し、荻原井泉水が主宰する自由俳誌『層雲』に寄稿。まもなく井泉水に認められ、1916年には『層雲』の選者の一人になりました。
ところが、家業の造り酒屋が破産して父は家出、山頭火は妻子を連れて熊本市に移住しました。古書店(後に額縁店)を開業しましたがうまくいかず、いきづまった山頭火は、1920年に新たな職をもとめて単身上京、図書館で勤務するようになりました。しかし、神経症を再発したために退職においこまれ、妻からは離婚をいいわたされてしまいました。1923年の関東大震災で焼け出された山頭火は、熊本の元妻のもとへ逃げ帰り、居候となりましたが、熊本市内で泥酔し、路面電車を急停車させる事件を起こしたところ、顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺に放り込まれました。
山頭火が自己の本性を知り、息を吹き返すきっかけとなったのは、この報恩寺で「禅語録」と出会い、出家して耕畝(こうほ)を名乗ってからでした。生きるために托鉢を続けて1年余が経った1926年、山頭火は、やはり漂泊の俳人で3歳年下の尾崎放哉が41歳の若さで死去したことにショックを受け、句作への思いが高まりました。法衣と笠をまとい食物の施しを受けながら西日本各地をめぐる行乞(ぎょうこつ)の旅は、7年間も続くことになり、その中でたくさんの句を生み出し、旅先から『層雲』に投稿を続けました。宮崎、大分、九州山地を歩いたとき「分け入っても 分け入っても 青い山」と詠んだことはよく知られています。
1932年、友人たちの援助で、郷里に近い小郡に「其中庵(ごちゅうあん)」という草庵に入って7年間をすごしました。山頭火の深酒は半端なものでなく、本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」で、最初の「ほろほろ」の時に3合といいますから、1升酒どころではなかったようです。この草庵に入ってまもなく、第1句集『鉢の子』にはじまり、57歳で亡くなるまでに7つの句集を刊行しました。漂泊の旅は、九州から中国、四国、近畿、中部、関東、東北の平泉にまでわたり、生涯に8万6千句というぼう大な作品を残しています。
山頭火の生きざまは、死後になってたくさんの人たちが知るにつれ、句の人気はどんどん高まり、1970年代には17か所だった句碑は、今では全国で500か所を越すほどで、個人の文学碑の数としては、山頭火を上回る人はいないだろうといわれています。
なお、オンライン図書館「青空文庫」では、種田山頭火のたくさんの句、日記、随筆を読むことができます。
「10月11日にあった主なできごと」
1841年 渡辺崋山死去…江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山が亡くなりました。
1915年 ファーブル死去…昆虫の行動研究の先駆者で、『昆虫記』を著わしたことで知られるフランスの生物学者ファーブルが亡くなりました。
1945年 GHQが5大改革を指令…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官マッカーサーは、「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令。戦後の民主化をすすめる第1弾となりました。
1947年 栄養失調で判事死亡…戦後の食糧不足のなか、国民の多くは配給で足りない分を、違法な「闇米(やみごめ)」や闇市でまかなっていましたが、東京地方裁判所の山口判事は、食糧管理法違反という闇米を取り締まる役目をおっていた責任感から、闇米など違法な買い出しをいっさい拒否したため栄養失調で死亡しました。