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『智恵子抄』 と高村智恵子

今日10月5日は、詩人の高村光太郎と結婚し、光太郎の詩集『智恵子抄』や「切り絵」を残した洋画家の高村智恵子(たかむら ちえこ)が、1938年に亡くなった日です。

1886年に、福島県二本松市の酒造業を営む家に生れた長沼智恵子は、福島高等女学校を卒業後に日本女子大学に入学しました。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学びましだ。1911年には、大学で同期だった平塚雷鳥が新しい女性の生き方めざして創刊した雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として注目されるようになっていました。

そんな折、智恵子は詩人の高村光太郎と出会いました。当時の光太郎は、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものでしたが、1914年に二人は結婚しました。智恵子と出会ってからの光太郎は、人間の自由や尊さをうたう人道主義につつまれるように変化しだし、同年に発表した第1詩集『道程』はその表れでした。「私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出されることが出来た」と、のちに語っています。

金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていた智恵子でしたが、しだいに絵が描けなくなり、1918年の父の死、長沼家の破産など心労が多く、草木染めや織物を試みるものの、心は満たされませんでした。1931年には精神異常があらわれだし、翌年大量の睡眠薬を飲んで自殺を図りましたが、命はとりとめられました。

ところが1935年に精神障害が進行、品川の病院に入院することになりました。しかし、この病室で、たくさんの紙絵を生み出したことは幸いでした。入院後半年ほどして少し落ち着いたころ、病室を訪れた光太郎が持っていった千代紙にとても喜び、千羽鶴を折り始めた智恵子でしたが、やがて「マニキュアに使う小さな、尖端の曲がったはさみ」で、色紙を切り抜き、さまざまな形を作り出していきました。食膳が出ると皿の上のものを紙で作らないうちは箸をとらないため看護婦さんを困らせたそうですが、「千数百枚に及ぶこれらの切紙絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、この世への愛の表明である」と光太郎は回想しています。そして、1938年の最期の日、紙絵をひとまとめに整理したものを光太郎に手渡し、安心したように微笑みながら、静かにこの世を去っていきました。
 
1941年、智恵子の他界から3年後、光太郎は30年に及ぶ二人の愛を綴った詩集『智恵子抄』(詩29篇、短歌6首、3篇の散文)を刊行しました。その一つ「あどけない話」を次に掲げましょう。

智恵子は東京に空が無いという。
ほんとの空が見たいという。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言う。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が智恵子のほんとうの空だという。
あどけない空の話である。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『智恵子抄』やエッセイ『智恵子の紙絵』『智恵子の半生』を読むことができます。


「10月5日にあった主なできごと」

528年 達磨死去…「七転び八起」のことわざでおなじみのダルマさんのモデルとなった中国禅宗の開祖・達磨が亡くなりました。

1274年 文永の役…元(今の中国)の皇帝フビライは日本を属国にしようと、2万人の軍隊と朝鮮(高麗)軍1万5千人を率いて対馬を占領後、博多に上陸しました。しかし、おりからの嵐にあって朝鮮へ引き上げました。1281年にも再上陸(弘安の役)を企てますが、このときも嵐にあって失敗。この2度にわたる元の襲来を「元寇(げんこう)」とよび、人々はこれを「神風が吹いた」と語りついできました。

1392年 南北朝が合一…北朝と南朝に分かれて対立していた朝廷でしたが、「明徳の和約」によって交互に天皇を出すことを約束、50年にわたる南北朝の争いを終えました。

投稿日:2012年10月05日(金) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)