児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  加藤清正と対立した小西行長

加藤清正と対立した小西行長

今日10月1日は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、キリシタン大名として知られる小西行長(こにし ゆきなが)が、1600年に斬首された日です。

泉州堺(今の大阪堺市)の薬種問屋の子として1558年前後に生まれた小西行長は、父の影響を受けて若い頃にキリシタンになりました。宇喜多直家の家臣となり、1581年に直家が死去すると、羽柴(豊臣)秀吉の家臣として仕えました。1583年には舟奉行となり、瀬戸内海水軍の将となり、1585年には小豆島に1万石を与えられました。小豆島ではキリスト教の布教を行ういっぽう島の田畑の開発を積極的に行い、1587年のバテレン追放令のときには、あえて反抗を示さず、入信をすすめた高山右近を島にかくまっています。

1588年には、秀吉の命で島津氏を降伏させた「九州征討」に続き、肥後国(熊本県)でおこった一揆制圧の功績をあげ、肥後国の南半分20万石を与えられ、宇土城主となりました。しかし、肥後国の北半分を領する加藤清正と次第に確執を深めることになりました。

1592年、豊臣秀吉が主導する遠征軍と明および李氏朝鮮軍との間で戦われた朝鮮侵略(文禄の役)では、行長は1万5千の水軍を率いて先陣つとめ、2番手の加藤清正と先陣を争いながら戦ったことは有名です。1593年に休戦するものの、行長は1597年に明との和平交渉に当たりましたが秀吉のきまぐれにより失敗し、慶長の役となりました。ここでも行長は清正と先陣争いをするものの、1598年秀吉の死を受けて撤退しました。

その後も、平和的な民政にたけた行長と、歴戦の勇士である清正との対立は続きましたが、行長が文治派の石田光成に組みしたのに対し、清正は武断派の徳川家康につきました。そして、関ヶ原の戦いにおいて、西軍の将として奮戦したものの敗北し、伊吹山に隠れていたところを見つけ出され、光成らとともに引き回しされた上、京都六条河原で斬首されました。このとき、切腹をすすめられましたが、自殺を認めないキリスト教の教義にしたがって拒否したといわれています。


「10月1日にあった主なできごと」

1847年 中江兆民誕生…「東洋のルソー」とよばれ、自由民権思想を広めた明治期の思想家 中江兆民が生まれました。

1949年 中華人民共和国成立…第2次世界大戦中、共産党の毛沢東は国民党の蒋介石と力を合わせて、日本との戦争に勝ちました。ところが蒋介石はアメリカと組んで共産党をしりぞけようとしたため、3年にわたる内戦がはじまりました。その結果、蒋介石は台湾に逃れ、この日毛沢東を主席とする新しい中国(中華人民共和国)が生まれました。中国の人たちはこの日を「国慶節」(建国記念日)と決めて、毎年にぎやかなお祭りを行ないます。

1964年 東海道新幹線開業…10日にはじまる「東京オリンピック」に間に合わせるために、この日開業。それまで東京─大阪間は特急で6時間50分かかっていた時間を3時間も短縮しました。当時は東京・新横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋・名古屋・岐阜羽島・米原・京都・新大阪の12駅。開業初日の大阪─東京間では、乗客がビュッフェ車にあった速度計に注目したため、運転士は張り切りすぎて直線区間では最高時速200kmのはずが210kmで連続運転をしました。そのため、新横浜駅を予定より5分も早く通過してしまって、終点に着くころには山手線に抜かされてしまうほど速度を落とさなくてはならなかったというエピソードが残されています。

投稿日:2012年10月01日(月) 05:04

 <  前の記事 「蘭学」を発展させた大槻玄沢  |  トップページ  |  次の記事 尊王攘夷論者・藤田東湖  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2859

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)