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東欧民族音楽の祖・バルトーク

今日9月26日は、「民族的古典主義」を代表する作曲家・ピアノ奏者として活躍するいっぽう、民俗音楽研究家として7千曲もの民謡を収集したハンガリーのバルトークが、1945年に亡くなった日です。

1881年に、ハンガリー・トランシルバニア地方のナジセントミクローシュの音楽愛好家の両親のもとに生まれたバルトークは、幼いころから音楽の素質をみせはじめ、5歳ころからピアノ教育を受けはじめました。しかし7歳の時に父が32歳で急死したため、ピアノ教師として一家を支えることとなった母の仕事の都合で各地を転々としますが、10歳の時には、バルトークも自作のピアノ曲を面前で披露するほどの腕前となりました。

1899年ブダペスト王立音楽院に入学すると、ピアノをリストの弟子のトマーンに、作曲をケスラーに師事して実力をつけ、在学中からピアニスト・作曲家として注目を浴びるようになりました。1903年にはワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの影響を受けて、ハンガリー独立革命の英雄を称えた交響詩『コッシュート』を書きました。

1907年、26歳で母校のピアノ科教授となったバルトークは、ハンガリーの農民階級に古くから伝わる民謡の研究に向きあうようになり、生涯の友となるコダーイと協力して民謡の採集をすすめました。その活動はハンガリーからルーマニア、旧チェコスロバキア、さらにトルコや北アフリカまで広がり、7000曲以上もの民謡をあつめて出版。これらのすべてが、バルトークの創作の基礎となっていきました。

1914年に始まった第一次世界大戦により、民謡の収集活動ができなくなったために作曲活動にもどったバルトークは、1914年から16年にかけてバレエ音楽『木彫りの王子』を発表すると国際的な名声をえるようになり、生涯に作曲した6曲の『弦楽四重奏曲』は、ベートーベン以後の最大傑作と高く評価されています。1917年に書かれた「第2番」の野性的な舞曲の第2楽章と、葬送曲風の第3楽章の対比が有名で、「第3番」「第4番」「第6番」は、12音技法を採り入れて、戦禍にまきこまれたヨーロッパの人々の悲しみを描いたといわれています。

1940年に第2次世界大戦が勃発すると、バルトークはファッシズムの嵐を嫌い、不本意ながらアメリカ合衆国へ移住しました。しかし、白血病にむしばまれ、経済的な困窮のなかで最後の力をふりしぼって『管弦楽のための協奏曲』(村上春樹のベストセラー「1Q84」に登場して話題になりました)『無伴奏バイオリン・ソナタ』を書き、妻のために『ピアノ協奏曲3番』を最後の17小節を残して、ニューヨークで亡くなりました。代表曲に、オペラ『青ひげ公の城』バレー音楽『中国のふしぎな役人』などがあります。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者・木村栄が亡くなりました。

投稿日:2012年09月26日(水) 05:58

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)