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「大倉財閥」 築いた大倉喜八郎

今日9月24日は、明治・大正期に実業家として活躍した大倉喜八郎(おおくら きはちろう) が、1837年に生れた日です。

越後国(現・新潟県)新発田の名主の家に生れた大倉は、18歳のとき商売で身を立てようと江戸に出て鰹節店に奉公し、3年後に乾物店を開業しました。1867年に鉄砲商に転業すると、幕末から維新の動乱期だったために大当たり、官軍、幕府軍の双方から注文が舞いこんで大きな利益をあげました。

やがて外国貿易に注目した大倉は、米国から欧州を一年以上かけて回る旅に出ました。その途中、ロンドンやローマで岩倉使節団の大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らと殖産興業を話し合う機会をえたことが、大倉の運命を大きく変えることになりました。帰国後の1873年、東京・銀座に日本初の貿易商社大倉組商会を設立すると、政府や陸軍と深く結びついて、台湾出兵、西南戦争とつづく軍需品の輸入を中心に、貿易および用達事業に乗り出しました。

1878年には渋沢栄一と大倉の二人が発起人となって東京商法会議所を設立して財界活動にも力を入れ、1887年には藤田伝三郎の藤田組と大倉組の土木部門を合併した「日本土木会社」(現・大成建設)を設立、帝国ホテル、東京電灯(現・東京電力の前身)、日本銀行、歌舞伎座、碓氷トンネルなどの建造物を請け負うなどの業績をのこしました。日清戦争では、軍御用達として食料、兵器の納入をおこなって巨万の富をえた大倉は、「死の商人」とか「政商」「御用商人」と呼ばれましたが、1900年には、世界共通の商業知識を持った人材の育成が必要と考え、大倉商業学校(現・東京経済大学)を私財50万円で設立しています。

日露戦争でも膨大な利益をえた大倉は、1906年にはビール3社・大阪麦酒(アサヒビールの前身)・日本麦酒(恵比寿ビールを製造)・札幌麦酒(サッポロビールの前身)を合併し、大日本麦酒を創設しています。いっぽう朝鮮や中国にも数多くの企業をおこし、軍の力を背景に貿易・鉱山・製鉄などたくさんの事業を経営するなど、大正期には大倉商事、大倉鉱業、大倉土木の3社を事業の中核とする「大倉財閥」を確立しました。

1917年には、日本初の私立美術館「大倉集古館」を設立、1923年には関東大震災で被害を受けた多くの人を見て、保険事業の必要性を感じ、大倉火災海上保険(後の千代田海上火災保険)を設立するなど、1928年に92歳で亡くなるまで一代で財を築き上げたその行動には、義侠心あふれる人間性をみることができます。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える 「心学」 をはじめて説いた江戸時代中期の学者 石田梅岩が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力し「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる「西南戦争」をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で、腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

投稿日:2012年09月24日(月) 05:42

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)