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「混血孤児の母」 沢田美喜

今日9月19日は、太平洋戦争敗戦後、「エリザベス・サンダース・ホーム」を創設し、2000人近くの混血孤児を育て上げた社会事業家の沢田美喜(さわだ みき)が、1901年に生れた日です。

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘として東京の本郷に生まれた美喜は、何不自由のない恵まれた環境で育てられました。東京女子高等師範学校(いまのお茶の水女子大学付属高校)を中退後、津田梅子らの家庭教師について学習しました。

美喜の大きな転機は、1922年に外交官の沢田廉三と結婚したことでした。廉三は、島根県生れのクリスチャンで、大正から昭和にかけて、アルゼンチン、中国、イギリス、アメリカ、フランスの外交官や大使となり、戦後は国際連合初代大使を歴任した人物です。結婚後、美喜もクリスチャンとなって夫にしたがって世界各地に移り住むうちに、さまざまな国際的な環境や社会へ目を向けることになりました。たくさんの友人たちと、各地の聖書集会にも積極的に参加しました。とくにロンドンで、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院でボランティアをした経験は、のちの美喜に大きな影響を与えることになります。

1941年、日本は太平洋戦争に突入、3年半の戦争を経て連合国に無条件降伏し、1945年8月15日に終戦を迎えました。大多数の国民は敗戦の悲しみのなかにも、「平和」をかみしめることになりましたが、その陰で新たな悲劇が生みだされていました。川や沼、トイレなどに無惨に捨てられる混血孤児の急増でした。

1946年のある日、美喜は東海道線の列車の中にいました。ガタッと列車が揺れた拍子に、網だなから風呂敷が、下にいた美喜の膝の上に落ちたため、美喜は網だなにもどそうとしました。そこへ不審に思った警官がやってきて、開いて見せることを要求しました。いわれた通り、風呂敷きを開けてみると、それは、生まれたばかりの黒人の遺体だったのです。遺体の母親と間違われた美喜でしたが、若い女が網棚に置いて降りていったという乗客の証言で、この件から無事放免されました。

しかし、この事件が美喜にはどうしても偶然とは思えず、これまでだれも手を差し伸べようとしなかった戦争混血児たちの孤児院建設のために戦う決意をすることになります。当時夫は公職追放され、三菱財閥・岩崎家の娘とはいえ、戦後の財閥解体で財産を接収されたために、ほとんど資金はありません。美喜は必死で、自分の持ち物を全てお金に換え、借金までして大磯の別荘を買いもどして孤児院を開設しました。ちょうどそのころ、日本に長く暮していたエリザベス・サンダー女史が亡くなり、その遺産が孤児院に贈られることになり、美喜はこれを記念して、孤児院の名称を「エリザベス・サンダース・ホーム」としました。

まもなくこの孤児院に、混血児たちが次々と送られてきました。列車の中、駅の待合室、公園、道端におき捨てられた、髪のちぢれた子、色の黒い子、目の青い子ども。栄養失調や病気で生死の境をさまよっているそんな子どもたちを、美喜はまよわず引き取り、懸命な看護を続けたのです。

その一方で、世間の冷たい視線、さまざまな圧力や偏見との戦いがありました。孤児院の懸命な働きにもかかわらずは、米軍からも解散のおどしを受けたり、邪魔をされたりしました。混血児の誕生は、アメリカ人の恥と考え、公けにされたくなかったためです。美喜は、「外からのどんな根拠のない中傷も、妨害も、子どもたちが私を失望させない限り、私の希望は消えません」とつっぱり続けましたが、ぐれて犯罪を重ねる少年たち、就職先を世話しても、水商売に流れてしまう少女たちには苦しめられたようです。しかし、あきらめず、創設から32年間に2000人以上の孤児を育てあげ、1980年78歳で急死するまで戦い続けたのでした。


「9月19日にあった主なできごと」

1870年 平民に苗字…明治政府は戸籍整理のため、これまで武士の特権とされてきた苗字の使用を、平民にも許可しました。しかし、めんどうがってなかなか苗字をつけない人が多く、5年後の1875年2月には、すべての国民が姓を名乗ることが義務づけられました。

1902年 正岡子規死去…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の正岡子規が亡くなりました。

投稿日:2012年09月19日(水) 05:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)