今日9月18日は、岡倉天心の愛弟子として日本美術界に大きな足跡を残した日本画家の横山大観(よこやま たいかん)が、1864年に生れた日です。
水戸藩士の長男として水戸に生まれた大観(本名・秀麿)は、10歳のときに一家で上京し、府立一中や東京英語学校時代から絵画に興味をもつようになりました。渡辺文三郎に鉛筆画や、狩野芳崖らに日本画を学ぶうちに画家をめざすようになり、1889年に新設したばかりの東京美術学校(現・東京芸大)に第一期生として入学しました。菱田春草、下村観山らの同級生とともに競いながら、明治の先覚者といわれる校長の岡倉天心、主任教授の橋本雅邦らからたくさんの影響を受けました。
美術学校卒業すると、予備校の講師をつとめた後、京都に移って京都美術工芸学校の教師をしながら、古社寺の名画の模写をするなど仏画の研究をしました。1896年に母校・東京美術学校の助教授に就任し、日本絵画協会の中心となって、意欲的な作品を発表、とくに幼い子どもが一人立つ姿を描いた『無我』(1897年・下の絵)は、新人画家として注目されるきっかけになりました。ところがまもなく岡倉天心への校長排斥運動が起こると、天心を師とあおぐ大観は、雅邦らとともに職を辞して、日本美術院創設に参加することになりました。
美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新しい画風の研究を重ねました。やがて線描をおさえて色彩を中心とする「没線描法」という絵画を次々に発表しました。ところがその先進的な画風も、画壇の反対派から猛烈な批判を浴びてしまいました。いまではその画風を的確に表す言葉とされる『朦朧体』も、当時は批判的に使用された言葉でした。国内での活動が行きづまりを見せたことで、大観は菱田と共に海外に渡り、カルカッタ、ニューヨーク、ボストン、さらにロンドン、ベルリン、パリでも次々と展覧会を開き、高い評価を得たことは大きな自信につながりました。
この欧米での高評価は、日本国内でも評価され始め、1907年には第1回「文部省美術展覧会」(文展)の審査員をつとめ、1913年には活動がとだえていた「日本美術院」を再興し、のちに近代日本美術史に大きな足跡を残す「院展」の中心人物となるに至りました。こうして日本画壇の重鎮として確固たる地位を築いた大観は、1934年朝日文化賞受賞、1935年には帝国美術院会員となり、1937年にはこの年制定された第一回文化勲章の受章者となっています。戦後になると、「富士山」を描くことが多くなり、いくつもの傑作を残し1958年89歳で死去しました。
なお、大観のたくさんの作品は、ネットの「横山大観の画像検索」で見ることができます。
「9月18日にあった主なできごと」
1927年 徳冨蘆花死去…長編小説『不如帰(ほととぎす)』を著し、一躍ベストセラー作家となった明治・大正期の作家で随筆家の徳冨蘆花が亡くなりました。
1931年 満州事変勃発…満州の支配をねらう日本陸軍の関東軍は、中国の奉天郊外の「柳条湖」付近で、満州鉄道の爆発事故をおこしました。これを中国のしわざとして軍事攻撃を開始し、数日のうちに満州南部を占領。しかし、中国側から依頼を受けた「国際連盟」は、中国に調査団を送って1932年3月に「満州国を認めない」決議をしたことに日本は反発、国際連盟を脱退。中国は同年5月に結ばれた協定により、「満州国」の植民地支配を認めました。