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歴史家で政治家のギゾー

今日9月12日は、歴史家として『ヨーロッパ文明史』などを著わし、フランス「七月王政」期には主導的政治家として活躍したギゾーが、1874年に亡くなった日です。

1787年、フランス南部の都市ニームに生れたフランソワ・ギゾーでしたが、8歳のときに、弁護士だった父親が「フランス革命」に巻きこまれてギロチンで死刑に処されてしまいました。父親との連座をおそれた母親は、ギゾーを連れてスイスのジュネーブに逃れました。やがてフランスがナポレオン時代に入ったことで、1805年、ギゾーはパリに帰国して法律家をめざしました。

1812年、イギリスの歴史家ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を翻訳したことが評価され、ギゾーはパリ大学に招かれて近世史の教授となりました。1816年に『フランスの代議制と現行制度について』を出版すると、立憲君主主義の論陣を張りました。ナポレオン失脚後の王政復古期には、王党派の復古主義に反対して、政治的な自由を主張する反政府側の一人として行動したため、大学での講義を停止させられたり、投獄されたりしました。しかし、政治的に優れた人物だったため、内務省秘書官や法務省の要職などを歴任しました。

1828年に再開された大学での講義『ヨーロッパの文明史』は、反政府派の学生や知識人に大好評で、名講義としてヨーロッパじゅうにギゾーの名を広めるとともに、2年間続いた講義録をもとに書かれた著書は、ギゾーの代表的歴史書として知られています。ヨーロッパの政治や社会制度にはじまり、宗教・思想・文学などを加え、ヨーロッパ社会の中心をなす精神を、独自の概念に基づいた分析を行なって深く追求した書は、福沢諭吉らに大きな影響を与えています。

1830年、7月革命が起こってブルボン朝が滅亡すると、オルレアン朝のルイ・フィリップ国王を助けて「七月王政」を行い、内相となり次いで1832年から40年までは文相を務め、フランス国民に対しての教育の普及、教育法の改革を行なういっぽう、歴史や科学研究を推進し、歴史的建造物を保護するなど大きな功績を残しました。 1840〜48年は外相を務め、七月王政の実質的な主導者として君臨するとともに、イギリス・オーストリアなどと友好的な政策をとったため、フランスの国際的地位を向上させました。

しかし、内政面では銀行や大工業の有力資本家を支持して国民の社会的・政治的自由を抑圧、選挙権においても制限を加えたりしため、国民の不満を招いてしまいました。1847年に首相となるとまもなく、普通選挙権を求めるデモがあちこちで発生しました。これに対し、ギゾーは、「選挙権が欲しければ金持ちになれ、そうすれば有権者になれる。すぐにデモを解散しろ」といったことが国民の反発を買い、ウィーン体制打破の動きがフランスにも浸透したことなどが要因になって、1848年に「フランス2月革命」が発生しました。

ルイ・フィリップ国王に首相を解任されたギゾーは、ベルギーからイギリスに亡命。1849年にフランスに帰国したものの、政界には関わらず、歴史家としてノルマンディーで余生を送り、88歳で死去しました。政治家としてよりも、歴史家としての評価が高く、『ヨーロッパ文明史』以外にも、『フランス文明史』『イギリス革命史』『現代史の回想』などの歴史書を残しています。


「9月12日にあった主なできごと」

1571年 延暦寺の焼き討ち…織田信長は、比叡山延暦寺を攻め堂塔を焼き払い、僧徒らを皆殺しにしました。領地をめぐる確執から、近江の浅井氏、越前の朝倉氏の軍勢を延暦寺が受け入れたこと、延暦寺が広大な寺領を誇り、大勢の僧兵をかかえて信長に反抗的だったのが原因でした。

1821年 塙保己一死去…「群書類従」という、わが国有史以来の文献のうち価値ある研究資料3373点を25部門に分類した叢書を著した、盲目の国学者 塙保己一が亡くなりました。

1872年 新橋─横浜間に鉄道が開通…新橋と横浜をむすぶ約29kmでわが国初の鉄道が開通、この日明治天皇を乗せた祝賀列車が走りました。翌日から旅客や貨物の輸送がはじまり、これまで1日かかったところを53分に短縮しました。上り下り共毎日8往復、料金は1円42銭5厘、75銭、37銭5厘の3階級でした。

1940年 ラスコーの壁画発見…フランスの子ども4人が遊んでいるうち偶然に発見。洞窟の側面と天井面には、たくさんの馬や山羊、野牛、鹿などの絵があり、旧石器時代後期(1万5000年ほど前)のクロマニョン人によって描かれたものと推定されています。

投稿日:2012年09月12日(水) 05:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)