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「阿弥陀聖(ひじり)」 空也

今日9月11日は、平安時代中期の僧で、浄土教の先駆者とされる空也(くうや・こうや)が、972年に亡くなった日です。空也は、当時の仏教のほとんどが貴族のためのものだったのを、一般庶民に「南無(なむ)阿弥陀仏」の名をとなえて祈る「念仏」を広めたことから「阿弥陀聖(あみだひじり)」と讃えられています。

空也は、903年ころ醍醐天皇の皇子、仁明天皇の孫として生れたとする伝承もありますが、出自や生地はほとんどわかっていません。若いころから、四国から東北など各地の名山霊峰を訪ね、やがて阿弥陀仏の名を唱えながら道路や橋を造るなど、社会事業を行いました。

922年、尾張国の国分寺(今の愛知県西部)で出家して「空也」を名のり、幅広い帰依者を得るようになります。やがて、938年ころからは、京都の市中を、胸にかけた金鼓をたたきながら、念仏を唱えて回ったために、市聖(いちのひじり)とか、市上人(いちのしょうにん)とよばれるようになりました。

948年、比叡山にのぼった空也は、座主の延昌(えんじょう)に師事して僧となり、光勝の名を与えられ、貴族層と接近するようになりました。しかしあくまで空也の名を改めず、生涯庶民たちへの心配りを忘れませんでした。そして、貴賤を問わず念仏をとなえることの大切さや、十一面観音像などさまざまな像を造ることをすすめました。

951年には、「大般若経」600巻を、金粉をニカワ液で溶かした「金泥」による写経を発願、963年に鴨川の岸べで、完成した「大般若経供養会」が行われ、京都・東山の西光寺(現在の六波羅蜜寺)におさめられました。

空也は70歳で、西光寺で亡くなりましたが、ここに有名な「空也上人像」が残されています。鎌倉時代に運慶の子の康勝の作といわれていますが、粗末な衣を着て胸に金鼓をかけ、空也が口から「南無阿弥陀仏」の6字を唱えると、その一字一字が阿弥陀仏になるという珍しい立像で、国指定の重要文化財に指定されています。空也の弟子たちは、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の「一遍」にも、大きな影響を与えました。


「9月11日にあった主なできごと」

1900年 初の公衆電話設置…それまでは電話局にのみおかれた公衆電話が、この日東京の新橋駅と上野駅の通路に設置されました。当時は交換手を呼びだしてからお金を払って、相手を呼びだしてもらうしくみでした。

1947年 教科書の検定制度…1886年の「小学校法令」で国定教科書(政府が定めた教科書)が使用されてきましたが、この日教科書検定制度を発表、文部省が認めたものだけを教科書に採用することになりました。この検定制度は憲法違反に当たると、家永三郎は国を相手に裁判をおこしましたが、32年間にもわたる審議の結果、1997年に敗訴が確定しました。

1971年 フルシチョフ死去…スターリンの死後、ソ連の最高指導者となり、スターリン批判によって、その独裁と恐怖政治を世界に暴露して世界に衝撃を与えたフルシチョフが亡くなりました。

2001年 同時多発テロ事件…アメリカでハイジャックされた旅客機3機が、ニューヨークの世界貿易センタービル(ツインビルに各1機)とワシントンの国防総省(ペンタゴン)に突入、数千人の死者を出す大惨事となりました。ブッシュアメリカ大統領は、この犯人をウサマ・ビンラディンを首謀者とするイスラムのテロ組織アルカイダと断定し、潜伏するアフガニスタン政府に引渡しを要求。しかし、彼らを保護するタリバン側が拒否したことから、アメリカはアフガニスタンを攻撃しました。

投稿日:2012年09月11日(火) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)