今日9月10日は、紀元前3世紀の終わりころ、中国で初めての統一国家をきずいた始皇帝(しこうてい)が、紀元前210年に亡くなったとされる日です。
紀元前247年に秦の襄(じょう)王が亡くなり、13歳の王子政(せい)が王位をうけつぎました。政王がじっさいに政治を手がけるようになったのは、23歳のときからです。それから38歳までに、韓、趙、魏,楚、燕、斉の国ぐにをつぎつぎにほろぼして、中国のほとんどを秦の領土にしてしまいました。紀元前221年、天下をまとめた政王は、みずから「皇帝」というよびかたを考え、いちばんはじめの皇帝という意味で「始皇帝」と名のることにしました。こうして中国は、歴史の上で初めて大きく統一され、皇帝は、その後2000年以上もつづくことになりました。
始皇帝は、まず、全国を36の郡にわけ、その下に県をおき、県から郡、郡から中央の政府に、権力が集まるしくみをつくりました。文字も統一しました。十何億人もいる大きな中国が、これまでに政治や文化でまとまってきたのは、秦の時代から文字が同じであったおかげでしょう。始皇帝は、巡幸といって、領土のあちこちにでかけていきました。皇帝の威厳を示すためでもありましたが、これによって道路づくりがすすみました。北方に巡幸したときは、匈奴という敵に大軍をむけて追いはらい、二度と攻めこんでこないように、「万里の長城」を築きました。始皇帝の時代だけでも、2400キロメートルにもおよぶ城壁です。
皇帝の専制政治をすすめるためには、批判をさせたり、反乱をおこさせてはならないと考えました。そこでまず、人民の武器をとりあげてしまいました。そして、思想を統一するため、法家(政府がもちいた学問)以外の教えを書いた書物は、全て焼き捨てさせました。学者たちは抗議しました。始皇帝は,抗議するものをかたっぱしからとらえて、460人あまりを生きたまま穴埋めにしてしまいました。「焚書坑儒」といって、始皇帝の歴史にのこる悪政です。人の意見に耳をかさず、自分の思いどおりにすすめる始皇帝の政治は、だんだんひどくなっていきました。都に阿房宮というぜいたくな大宮殿を建てたり、驪(り)山に等身大の兵馬俑(へいばよう)で知られる秦始皇帝陵の建設などを行いました。
これらはみな、人民の血と汗と涙によって、なしとげられました。工事にかりだされ、税をしぼりとられて、人びとは苦しみ、皇帝をうらみました。やがて始皇帝が亡くなると、各地で反乱があいつぎ、わずか3年にして秦はほろんでしまいました。
「9月10日にあった主なできごと」
1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。
1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。
1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。