今日9月5日は、江戸時代中・後期に、農民の出でありながら武士となり、江戸幕府の探検家となって活躍した最上徳内(もがみ とくない)が、1836年に亡くなった日です。
1754年、出羽国(現在の山形県村山市)の貧しい農家に生れた徳内は、幼いころから算術や測量が好きで、学問を志し、家を弟たちに任せて、たばこの行商をするなど各地をめぐりました。青森で蝦夷地(北海道)の話を聞くうち興味をおぼえ、地元の漁師にたのんで蝦夷地へ渡ったといわれています。
1781年江戸へ出て、本多利明の音羽塾に入門、天文や航海、測量、経済論などを学び、最上徳内と名乗って長崎への算術修行へ出かけたりしました。1785年老中の田沼意次は、ロシアの南下に対する備えと交易を目的に蝦夷地探検を企画、徳内は病気だった師の利明に代わって、下人扱いながら調査隊に同行しました。蝦夷地では幕府の役人らとともに釧路から厚岸(あつけし)、根室、千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されて国後島へも渡りました。活躍を認められた徳内は、翌年には単身で再び国後へ渡り、択捉(えとろふ)島、ウルップ島へも渡っています。択捉では交易のため滞在していたロシア人ともあって、アイヌを仲介して交友し、ロシア事情を聞きだしています。
当時幕府では、10代将軍・徳川家治が死去、失脚した田沼意次にかわって松平定信が老中となり「寛政の改革」により、蝦夷地開発は中止されたことで、徳内は江戸へもどりました。しかし、1787年に再び蝦夷へ渡り、松前藩の寺に入門しましたが、正体が発覚して蝦夷地を追放されるものの、野辺地で知り合った船頭の紹介で1788年には酒造や廻船業を営む商家の婿となりました。翌年、アイヌの騒動に巻きこまれて捕われましたが、本多利明らの運動で釈放され、1790年には無罪となったばかりか、蝦夷地に関する豊富な知識を松平定信に認められ、幕府の役人「普請役」となって、幕府が松前藩に命じていたアイヌ待遇改善の調査のために、蝦夷地へ派遣されました。
その後も徳内は、北方の詳細な地図をこしらえたり、樺太や千島列島の探検をしたり、アイヌの人々の暮らしや言葉の研究、松前藩のロシア・満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知して幕府に報告したりしました。ロシア語の勉強もし、1792年にロシアの使節ラクスマンが根室に来航した時は、その応対をしています。
1798年には、幕臣の近藤重蔵にしたがって択捉島へおもむき、領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てたことはよく知られています。1823年に長崎へ来日したドイツ人医師シーボルトは、1826年に江戸へ参府した際、徳内はシーボルトと親しく交わりました。徳内の北方研究の数々は、シーボルトの著書によってヨーロッパに広く知られることになり、間宮林蔵とともに、近世日本最大の探検家と評価されています。
「9月5日にあった主なできごと」
1566年 スレイマン死去…オスマン帝国第10代スルタンとして13回にもおよぶ遠征の末、地中海の制海権をにぎって「世界の帝王」と呼ばれたスレイマンが亡くなりました。
1638年 ルイ14世誕生…フランスブルボン王朝の第3代国王で、「朕は国家なり」と絶対専制君主として勢力を誇ったルイ14世が生れました。
1903年 棟方志功誕生…仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家 棟方志功が生れました。