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不屈の闘士・田中正造

今日9月4日は、日本初の公害事件といわれる「足尾銅山鉱毒事件」を告発した田中正造(たなか しょうぞう)が、1913年に亡くなった日です。

1841年下野国(現・栃木県)の村役人の頭である名主の家に生れた田中は、若いころから正義感が強く、父のあとをついで名主となったものの、幕末には領内の悪政改革運動にのりだしたことから、明治維新直前の1868年に投獄され、出所後は領内追放となってしまいました。1870年に、いまの秋田県鹿角市で役人になりましたが、翌年上司を殺害した容疑で逮捕され、投獄されてしまいます。これには物的証拠もないものの、田中の性格や言動が上役たちに反感を持たれたのが影響したようです。ここでも厳しい取り調べを受け、疑いがはれて釈放されたのは3年後のことでした。

故郷にもどり、隣の石塚村(現・佐野市)の造り酒屋の番頭をつとめた田中でしたが、おりから高まった自由民権運動に共鳴して、1879年に「栃木新聞」(現・下野新聞)の編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えるいっぽう、政談演説会を開催したりしました。1880年には、県議会議員に選ばれ、当時、鬼・県令(知事)とよばれた三島通庸(みちつね)と議会ではげしく対立、三島追放運動を展開したために捕らわれるも、決して屈しませんでした。さらに、三島暗殺事件(加波山事件)に関係したとして1885年逮捕されますが、三島が栃木県を去るとまもなく釈放され、1886年には県会議長を務めました。やがて田中は、「渡良瀬川鉱毒問題」に関心を向けるようになります。渡良瀬川は、栃木と群馬の県境を流れる川で、川上には足尾銅山があり、銅のとりカスを川に流すために洪水がおこると、毒物が田畑をだめにするといわれていました。

1890年田中は、第1回衆議院議員総選挙に初当選を果たしました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、大騒ぎとなりました。これが、日本初の公害事件といわれる「足尾銅山鉱毒事件」で、田中はこの事件を再三議会にとりあげ、鉱山操業停止と被害民の救済を政府にせまりました。演説のときには、鉱毒で枯れてしまった稲や竹などをみんなに見せたりしたものの、政府も経営する古河財閥もなんの対策をしようとしません。1897年になって、農民の鉱毒反対運動が激化したことで、政府と足尾銅山側は予防工事を確約し、脱硫装置などを着工しましたが、根本的な解決にはほど遠いものでした。

1900年2月、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、警官隊と衝突して流血の惨事(川俣事件)を引き起こし、多くの農民が捕えられました。この事件に怒った田中は、政治家の限界を知って翌年議員辞職、2か月後の12月10日、東京・日比谷において、帝国議会開院式から帰るとちゅうの明治天皇に対し、死を覚悟の上で「足尾鉱毒事件」について直訴を行いました。警備の警官に取り押さえられて直訴そのものには失敗しましたが、東京じゅうは大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は全国に広く知れわたりました。

このころから「足尾鉱毒事件」に対する世論が高まりをみせ、政府も対策をたてざるを得なくなり、渡良瀬川下流の「谷中村」をつぶして遊水地を造って解決しようとしました。これでは、根本的な解決にならないと考えた田中は、1904年に谷中村に住まいを移して、村民と寝起きを共にしながら廃村に抵抗しましたが、70歳をこえる年齢には勝てず、激しい一生を終えたのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、田中正造の天皇への「直訴状」、「議会に提出した質問状」など5編を読むことができます。


「9月4日にあった主なできごと」

1943年 猛獣薬殺命令…太平洋戦争中、上野動物園の猛獣が空襲で檻から逃げ出すのを防ぐため、27頭の猛獣すべてを薬殺する命令が下され、この日慰霊祭が行われました。

1965年 シュバイツァー死去…アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、生涯を原住民への医療などに捧げたドイツの神学者・医師のシュバイツァーが亡くなりました。

1994年 関西国際空港開港…大阪・泉州沖の人工島に、関西国際空港が開港しました。世界初となる本格的な海上空港で、わが国初の24時間運用空港となりました。

投稿日:2012年09月04日(火) 05:06

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)