児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  印象派音楽のドビュッシー

印象派音楽のドビュッシー

今日8月22日は、『牧神の午後への前奏曲』『海』『月の光』『子どもの領分』など、音楽の印象派といわれる独自の和声を採り入れたフランスの作曲家ドビュッシーが、1862年に生れた日です。

パリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レーに瀬戸物商の長男として生まれたクロード・ドビュッシーでしたが、事業に失敗した父にかわり叔母の援助を受けて育ちました。ほんの一年ほど基礎的なピアノレッスを受け、10歳のときにパリ音楽院に入学、自ら学資をかせぎ出しながら4年間ピアノや和声学、対位法の基礎を学びました。1880年、作曲学教室に入ってさらに4年間作曲を学んだのち、カンタータ『放蕩息子』で卒業の最優秀賞ともいえるローマ大賞を受賞しました。

1885年から1887年にかけてイタリアのローマへと留学したものの、ローマの生活や雰囲気になじめず、期間をくり上げてパリへもどりました。当時のパリは、新しい思想や芸術の運動がおこりはじめていて、特にマラルメの家ではボードレールら新進の文士や画家のモネなど、さまざまな芸術家が集まり、ドビュッシーもたった一人の音楽家として会合に加わりました。やがて、パリの一部の音楽関係者のあいだで、印象主義を音楽の世界に採り入れたドビュッシーの作品が注目されるようになってきました。

そして1894年、マラルメの詩による『牧神の午後への前奏曲』が発表されると、若い人たちの圧倒的な支持をえて、いちやく名声を高めました。詩は、ある夏の夜の午後、半獣神の牧神が湖のほとりで昼寝をしながら水浴するニンフの幻を見るといったような内容で、その印象を、これまでになかった感覚の楽風で作られたものでした。

このドビュッシーの、はっきりしたメロディや構成をさけ、音色や情緒をたいせつにしたまさに印象派の絵を音楽に移しかえたような作曲スタイルは、さらに磨きがかけられ、交響詩『海』『月の光』『亜麻色の髪の乙女』、管弦楽曲『夜想曲』などを成功させ、近代フランス音楽を代表する作曲家としての地位を確実なものにしました。

晩年には、40歳を過ぎて生れた娘シュシュを溺愛し、3歳になったとき彼女のために「グラドス・アド・パルナッスム博士」「人形のセレナーデ」など6曲からなるピアノ曲集『子どもの領分』を発表、その美しいメロディの数々は名曲として定評があるばかりでなく、ピアノを学ぶ子どもたちに人気のある練習曲となっています。


「8月22日にあった主なできごと」

1358年 足利義満誕生…室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満が生れました。

1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してからはじょじょに植民地化していました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。

1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家 島崎藤村が亡くなりました。

1981年 台湾で飛行機事故…台北市に本拠をおいていた遠東航空の旅客機が、台北─高雄間を飛行中に空中分解して墜落、乗員乗客110人が全員死亡しました。この中に直木賞作家の向田邦子が含まれていて、日本社会に衝撃がおこりました。

投稿日:2012年08月22日(水) 05:55

 <  前の記事 「永続革命論」 のトロツキー  |  トップページ  |  次の記事 近代日本画の先駆者・竹内栖鳳  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2821

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)