今日8月23日は、日本の伝統的な水墨画や大和絵の技法に、西洋画の写実画法からヒントをえた独自の画法を創造した竹内栖鳳(たけうち せいほう)が、1942年に亡くなった日です。
1864年京都の料亭に生まれた竹内栖鳳(本名・恒吉)は、幼いころから絵を書くのが好きでした。10歳上の姉のはげましを受けて13歳のときに四条派の土田英林に絵を習い始めました。そして、17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺(ばいれい)の私塾へ正式に入門すると、ほどなく頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、楳嶺塾「四天王」の筆頭と呼ばれ、師から「棲鳳」の号を贈られました。
1887年には、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)を修了すると、内国勧業博覧会などに出品して受賞を重ね、写実の新進画家の先鋭として注目を浴びるようになります。
1900年、パリの万国博覧会に出かけたのを期に、7か月かけてヨーロッパを旅行し、名だたる美術館をほとんど見学したことでギリシャ時代からルネサンス、さらに印象派に至るまでの主要画家の作品に接したことで、帰国後「棲鳳」の号を西洋の「西」をとりいれた「栖鳳」に変えました。とくに、ターナーやコローの風景画に感銘を受けたと語っています。
帰国後の栖鳳は創作意欲に満ちあふれ、神社や寺をまわっては、宝物の模写にはげんだり、特に動物画に創作意欲をつぎ込みました。雀や猿、兎など、動物を描けば、体臭までえがくとまでいわれました。1907年に文展(文部省美術展覧会)がはじまると同時に審査員のひとりとなり、1913年に「帝室技芸員」に推挙されたことで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立し、1937年には第1回文化勲章を受章しています。
また、長年にわたり京都府画学校など後進の指導や育成にも力を入れ、門下生に上村松園や土田麦僊、小野竹喬ら名だたる俊英を多数輩出して、東の大観、西の栖鳳と称されるほどの巨匠となりました。
なお、代表作『班猫(はんびょう)』 のモデルとなった猫は、栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫でした。その姿に絵心がかき立てられ、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げました。
「8月23日にあった主なできごと」
1868年 白虎隊の最期…明治新政府軍と旧幕府との間の戦争を戊辰戦争といいますが、旧幕府軍の拠点である会津藩(福島県)に、白虎隊という16歳〜17歳の会津藩士の子弟343人で構成された組織がありました。8月に入ると新政府軍は会津の鶴ヶ城へせまり、落城寸前になった22日、白虎隊の出陣が許され激しい戦いにいどみました。そして翌日、城が煙につつまれているのを見た生き残りの隊員20名は、飯盛山で命を絶ったのでした。
1879年 滝廉太郎誕生…明治時代の洋楽揺籃期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎が生まれました。
1914年 日本対ドイツ戦に参戦…第1次世界大戦がはじまり、日英同盟を結んでいた日本は、ドイツに宣戦を布告しました。ヨーロッパ諸国がアジアから撤退しているすきに、中国に手を伸ばすのが日本のねらいでした。