今日8月21日は、1917年におきたロシア十月革命の指導者の1人であり、レーニンに次ぐ中央委員会の一員だったソ連の政治家トロツキーが、スターリンと対立して亡命先のメキシコで1940年に暗殺された日です。
1879年、ウクライナ南部のユダヤ系富農の家に生れたレオン・トロツキー(本名レフ・ダビドビッチ・プロンシュタイン)は、黒海の北西岸にあるオデッサの有名校に学びました。トロツキーは在学中、トルストイ、シェークスピア、プーシキン、ディケンズらの文学に傾倒するいっぽう、ドイツの社会主義者ラッサールの思想に共鳴し、17歳で秘かに革命運動に加わったため1898年には逮捕され、シベリアに流刑されました。
1902年の夏、シベリアを脱走したトロツキーはスイスを経てロンドンに逃れましたが、第1次ロシア革命のおきた1905年にロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となりました。しかし、ロシア全土で起こったゼネストに関与したことで12月に逮捕され、シベリアへの終身流刑を宣告されました。このときも、護送中に脱走。ウィーンへ亡命して、雑誌『プラウダ』に革命理論の基本「永続革命論」を提唱しました。
1914年に第一次世界大戦が始まると、スイス、フランス、アメリカへ居を移し、1917年ロシアに二月革命が起こったことを知ると帰国。ボリシェビキ(多数派)と歩調をあわせて革命運動に参加し、ソビエト議長に就任。十月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導し、印刷所、郵便局、発電所、銀行などの要所を制圧するなどして、メンシュビキ(少数派)からボリシェビキの権力奪取に貢献しました。レーニンが革命政権である人民委員会議の議長に就任すると、外務人民委員(外相)として外交問題を担当しました。
1918年2月、軍事人民委員・最高軍事会議議長に就任したトロツキーは、大衆の人気に支えられて「赤軍」の組織に着手すると、赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげました。ところが1924年レーニン死去後に、中央委員会で七人組が台頭すると、スターリンら中央委員会の多数派と対立しました。トロツキーの「永続革命論」より、スターリンらの「一国社会主義論」が優勢になり、1927年には政府・党の全役職を解任され、1929年に国外追放をいいわたされました。メキシコに亡命したトロツキーでしたが、第四インターナショナルを結成し、反スターリン運動を展開しましたが、スターリンの刺客によって暗殺されてしまいました。
なお、トロツキーの革命論は、「革命はロシア一国で成し遂げられるものでなく、欧米の革命による支援をうけ、世界的な規模までも革命を拡大しなくてはならない」というもので、トロツキズムといわれています。
「8月21日にあった主なできごと」
1862年 生麦事件…今の横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩の島津久光一行の前をイギリス人が乗馬のまま横切ったことで、一部の藩士が4人を殺傷。これが原因で、翌年8月に薩英戦争がおこりました。
1911年 「モナリザ」盗難…パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。