今日7月26日は、19世紀末から20世紀前半に活躍したイギリスの劇作家バーナード・ショーが、1856年に生れた日です。
アイルランド東部にあるダブリンの穀物商の家に生れたジョージ・バーナード・ショーでしたが、幼い頃に家が没落し、きびしい境遇の中で少年時代を送りました。小学校を卒業すると、不動産会社の事務員をつとめたのち、20歳のころにロンドンへ出て、会社勤めをしながら雑文を書いたり小説を書いたりしました。
1884年、穏健な社会主義の考え方を推し進めるフェビアン協会に入会、その有力メンバーとして活躍するようになり、評論家としてもジャーナリズムの世界で名をあげるようになりました。
1892年、スラム街の住宅事情を攻撃した戯曲『やもめの家』の上演により劇作家としてデビューをはたすと、精力的に作品を書き続け、1950年に94歳で亡くなるまでに53本もの戯曲を残しました。いちばんの代表作は、1912年に発表した『ピグマリオン』があげられます。ギリシャ神話を基にしたショー喜劇で、音声学者のヒギンズが下町の花売り娘を特訓して、りっぱな貴婦人に育てあげるというストーリーで、ガブリエル・パスカルによって1938年に映画化され、ショーはアカデミー脚色賞を受賞しました。さらに、アラン・ラーナーによってミュージカル化され、『マイ・フェア・レディ』としてブロードウェーで大ヒットしました。演劇もミュージカルも、現在にいたるまで世界各地で上演されています。
そのほか、検閲で上演禁止にされ作者を怒らせたことで知られている売春と結婚制度について論じた『ウォレン夫人の職業』(1893年)、ヒロイズムを風刺した『悪魔の弟子』(1897年)、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いた『シーザーとクレオパトラ』(1898年)など風刺や皮肉、ユーモアにみちあふれた作品をつぎつぎに発表して、演劇界に新風をふきこみました。20世紀に入っても、生命力あふれる『人と超人』(1905年)、ジャンヌ・ダルクを主人公にしてのちに映画化もされた『聖女ジョーン』(1923年)などがあげられます。
ショーの劇作の大きな特長は、豊富な知識を自在にあやつり、独自の警句や機智をおりこむことで観客をおかしみに誘って笑わせながら、社会の仕組みや人生を深く考えさせる思想劇を多く書いたところにありそうです。1925年にはノーベル文学賞を受賞しています。
名言を数多く残したことでも有名で、「グラスに入っているワインを見て『もう半分しか残っていない』と嘆くのが悲観主義者。『まだ半分も残っている』と喜ぶのが楽観主義者」「人生には二つの悲劇がある。一つは願望が達成されないこと、もう一つは、それが達成されること」「信仰を持つ者が無神論者より幸せだという事実は、酔っ払いがしらふの人間よりも幸せだということに似ている」等など……思わず吹き出したくなるものがたくさんありますが、本人は、一生禁酒禁煙で通し、菜食主義者だったそうです。
「7月26日にあった主なできごと」
1881年 小山内薫誕生…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が生まれました。
1945年 ポツダム宣言の発表…アメリカ、イギリス、ソ連(現ロシア)3国首脳の名で、日本に無条件降伏をせまる「ポツダム宣言」を発表しましたが、日本はこれを無視しました。しかし、8月に入って広島と長崎に原爆を投下され、日本と不可侵条約を結んでいたソ連の参戦などの情勢の変化により、8月14日の御前会議で受諾を決めて終戦をむかえました。発表から受諾までの20日間で、およそ38万人もの人が亡くなったといわれています。
1956年 スエズ運河国有化宣言…地中海と紅海を結ぶ国際的な水路でエジプトにあるスエズ運河は、開通した1869年から100年近くものあいだ、通行料はフランスやイギリスが株を占める万国スエズ運河会社に入り、エジプトには何の利益も受けられませんでした。エジプトのナセル大統領はこの日、スエズ運河国有化を世界に宣言しました。これを不服としたフランスやイギリスは、国際連合に解決を求めましたが、その解決を待たずに両国は、10月にイスラエルと連合してエジプトに戦争をしかけました(スエズ動乱・中東動乱)。これに対して世界中から非難がまきおこり、連合軍は11月に撤退。翌年4月にエジプト国有になって、スエズ運河は再開されました。