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明治の知将・児玉源太郎

今日7月23日は、明治期の陸軍幹部で、日清・日露戦争の勝利に貢献した児玉源太郎(こだま げんたろう)が、1906年に亡くなった日です。

1852年、周防国(現・山口県)徳山藩士の長男として生まれた児玉源太郎は、父が5歳で亡くなったため、姉の配偶者である義兄に養育されながら藩校で学びました。13歳のとき、父代わりの義兄が藩内の佐幕派に暗殺されて児玉家は廃絶しましたが、やがて源太郎が家長となって再興されます。

1868年下士官として戊辰戦争に参加後、陸軍の軍人となった児玉は、1874年の「佐賀の乱」や1877年の「西南戦争」など、旧士族による反乱を鎮めるために出征しました。その後は連隊長をへて、1885年には参謀本部第一局長になり、陸軍大学長を兼ねて多くの人材を養成しました。1892年にヨーロッパ視察を終えて帰国すると、陸軍次官となってドイツ式軍事法をとりいれるなど、陸軍の軍制を近代化するために努力を重ねました。1994年に勃発した日清戦争では、輸送と補給を担当して活躍しました。

1898〜1906年の8年間は、日清戦争後に植民地となった台湾をおさめる台湾総督となり、後藤新平を民政局長に任命して、抵抗運動を制圧しながら穏健な植民地経営を推し進め、二人の統治によって日本は台湾を完全に掌握することに成功しました。

1900年からは、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣を兼ねましたが、1903年に対露戦計画を立案していた参謀次長が急死したため、大山巌参謀総長から特にこわれて参謀次長となりました。1904年に日露戦争が開戦すると、陸軍大将・満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦などで総司令官の大山を補佐しながら全作戦を指導し、とくに旅順攻囲戦では、苦戦中の第三軍司令官・乃木希典(のぎまれすけ)にかわって指揮をとり、作戦を成功させたといわれています。ロシアと戦うための資金・人材・作戦の分析管理、海底ケーブルの敷設と無線による情報網整備、戦後の講和にむけての冷静な判断など、知将として知られる児玉の働きなくしては、日露戦争の勝利はなかったとまでいわれています。

日露戦争後、児玉は参謀総長に就任、南満州鉄道(満鉄)創立委員長を兼務するものの、委員長に就任した10日後に急死しました。


「7月23日にあった主なできごと」

1787年 二宮尊徳誕生…江戸時代後期の農政家で、干拓事業などで農村の復興につくした二宮尊徳が生れました。薪を背負いながら勉学にはげんだエピソードは有名です。

1867年 幸田露伴誕生…『五重塔』などを著わし、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家の幸田露伴が生れました。

1918年 米騒動…富山県魚津の主婦たちが、米穀商が米を買い占め、船で県外へ持ち出そうとするのをこの日にとがめたことがきっかけとなって、米穀商を襲う米騒動が全国規模で拡がり、30名以上の死者と2万5千人以上の逮捕者を出す大事件となりました。

投稿日:2012年07月23日(月) 05:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)