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6千人の命を救った杉原千畝

今日7月31日は、第2次世界大戦のさなか、リトアニア領事館に勤務していた外交官の杉原千畝(すぎはら ちうね)が、1986年に亡くなった日です。杉原は、ナチス・ドイツの迫害により欧州各地から逃れてきた難民たちに同情、外務省の命令に反してビザ発給をしたことで知られています。

1900年岐阜県八百津町に生まれた杉原は、英語教師となる夢をめざし、1918年に早稲田大学高等師範部(今の早大教育学部)へ入学。生活苦と闘いながら猛勉強のすえに、翌年外交官留学生試験に合格しました。大学を中退し、ロシア語研修生としてハルピン(現・中国東北部の都市)に留学、能力を評価されて、この地で長く外交官勤務を続けました。

1939年杉原は、バルト海東部にあってソ連に支配されていた「リトアニア」の日本領事代理として赴任しました。第2次世界大戦が激しくなったころで、ドイツのヒトラーによるユダヤ人迫害が激しさを増してきたため、ユダヤ人を受け入れるヨーロッパの国はほとんどなくなってきていました。そして1940年7月、ナチスの目を盗んでアメリカ合衆国へ渡ろうとする6000人ものユダヤ人らが、日本を通過するためのビザ(入国許可証)を求めて、領事館へおしかけてきました。

杉原は、日本の外務省へビザの発給許可を求める電報を打ったところ、「正規の手続きができない者にビザ発給は不許可」というものでした。何度くりかえしても回答は変わりません。悩みぬいた杉原は、ビザ発給を独断しました。次の文は、のちに杉原が綴ったものです。

「……仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは、何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も、何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。……果たして、浅慮、無責任、我無者らの職業軍人グループの、対ナチス協調に迎合することによって、全世界に隠然たる勢力を擁する、ユダヤ民族から永遠の恨みを買ってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している」──と。

当時、杉原はソ連から9月5日までにリトアニア領事館の閉鎖をいいわたされていたのと、ビザ発給は手書きでなくてはなりませんでした。1日に発給できるビザはどんなに急いでも300人分でしかなく、最後のビザは、杉原がベルリンへ向かう列車の窓からだったといわれています。

第2次世界大戦後の1947年、夫人と二人の子どもを連れて日本に引きあげてきた杉原でしたが、独断でビザを発給したことで外務省をやめさせられました。しかし1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れ、ボロボロになった当時のビザを手に杉原に涙ながらに礼の言葉をのべたのでした。これがきっかけになって、亡くなる前年の1985年、「ヤド・バシェム(諸国民の中の正義の人)賞」をイスラエル政府から贈られ、その行動が全世界に知られるようになりました。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太を占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著わした作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。

投稿日:2012年07月31日(火) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)