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強気の外交官・松岡洋右

今日6月27日は、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要場面に外交官ないしは外務大臣として関わった松岡洋右(まつおか ようすけ)が、1946年に亡くなった日です。

1880年、山口県室積村(現・光市)の廻船問屋に生まれた洋右は、11歳の時に父が事業に失敗して破産したことで、渡米して成功を収めた親戚をたよって、1893年に渡米しました。しかし、当時のアメリカは、東洋人に対する人種差別や排斥が激しく、労働移民のような状況でした。苦学のすえ、オレゴン大学法学部に入学し1900年に卒業、1902年に帰国するまでの9年間の体験から、アメリカ人に対しては、常に毅然たる態度で、対等の立場で臨むという信条を身につけることになりました。

帰国後、東京麹町に山口県人会の寮があったことで、明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら、独学で外交官試験をめざしました。1904年に外交官試験に合格して外務省に入省すると、中国の上海に赴任、南満州鉄道(満鉄)総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎と知りあいました。1919年からのパリ講和会議には報道係として派遣され、日本政府の代弁者として英語で弁舌する活躍をしましたが、1921年外務省を41歳で退官。満鉄総裁となっていた山本条太郎の紹介で満鉄理事として着任、1927年には副総裁となりました。

1930年に満鉄を退職すると、衆議院議員総選挙に郷里山口から立候補して当選をはたし、政友会に所属しました。議会内では対アメリカ・イギリスとの協調・対中国内政不干渉を方針とする幣原外交を厳しく批判し、国民から喝さいを浴びました。1931年9月に「満州事変」が勃発すると、松岡はいちやく国際政治の表舞台に躍り出て、1932年秋に開かれたジュネーブ国際連盟総会では、全権大使として「満州における日本の特殊な立場と有効性」を主張しました。しかし全世界の反対にあい、1933年2月「日本の主張が認められないならば国際連盟脱退はやむをえない」と、日本代表団を引き連れて退場、日本の連盟正式脱退をリードする形になりました。

その後も松岡は、満鉄総裁として新興国満州に采配をふるって侵略政策を推進し、政党解消運動をおこして、政友会を脱会しました。さらに、1940年7月に成立した第2次近衛内閣で外務大臣に就任した松岡は、大東亜共栄圏の完成をめざすこと、日本・ドイツ・イタリア・ソビエトの四国連合をつくりアメリカ・イギリスに対抗する方針を打ち出し、その第一段階として、1940年9月に日独伊三国軍事同盟を成立させました。ところが、まもなく独ソ関係は急速に悪化したことで、自らおもむいて外交的駆け引きをすることを決意し、ドイツとイタリア訪問の帰路の1941年4月、日ソ中立条約を電撃的に調印、日本が単独でソビエトとの相互不可侵を確約する外交的成果をあげました。ところが、6月にドイツがソ連と開戦すると、松岡のあまりの独断専行ぶりに、これまで協力関係にあった陸軍とも対立するようになって松岡外交は破たん、中枢を追われてしまいました。

第2次世界大戦後、松岡はA級戦争犯罪人としてGHQ命令により逮捕され、極東国際軍事裁判の公判中に病死しました。


「6月27日にあった主なできごと」

1809年 上田秋成死去…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』 を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が亡くなりました。

1850年 小泉八雲誕生…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が生まれました。

1880年 ヘレンケラー誕生…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したアメリカのヘレンケラーが生まれました。

投稿日:2012年06月27日(水) 05:21

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)