今日6月26日は、戦前を代表する東洋史学者・ジャーナリストで、邪馬台国論争や中国の時代区分論争などで学会をリードした内藤湖南(ないとう こなん)が、1936年に亡くなった日です。
1866年陸奥国毛馬内(現・秋田県鹿角市)に、南部藩士の子として生まれた湖南(本名虎次郎)は、父から漢文の手ほどきを受け、13歳のときには『日本外史』を通読するほどでした。1883年秋田師範学校に入学すると、運よく高名な儒者西宮端齋に漢詩文を学び、詩才を認められました。生物学教師からは生物進化論を英語で学んだことは、湖南の視野を広げ、哲学への情熱が芽生えました。
卒業後、小学校の先生になりましたが、 1887年に父の反対を押し切って上京すると、大内青巒(せいらん)が主宰する仏教雑誌「明教新誌」の記者となりました。大内は、明治初年の廃仏毀釈運動によって仏教の衰えを嘆き、復興を志す人物でした。やがて湖南は、大内のはじめた雑誌や新聞を評論する「万報一覧」や、尊王奉仏運動の機関紙「大同新報」などの編集人となってジャーナリストとして頭角をあらわすようになりました。
当時、三宅雪嶺や志賀重昂(しげたか)らが「政教社」をおこし、国粋主義をスローガンとした「日本人」を発刊していました。しかし、彼らの主張は当局ににらまれ、発禁処分を受けました。湖南は志賀の要請を受けて1890年に政教社へ入り、「日本人」を改名した「亜細亜」の記者となって主筆の三宅や志賀の論文の代筆をしたばかりか、自ら短評や書評をてがけるようになりました。いっぽう読書にいそしみ、政治、宗教、哲学、文学、美術、演芸などあらゆるジャンルの書を読破しました。その総合的思考の中から、湖南は三宅の著書となっている『真善美日本人』や『我観小景』を代筆し、その共同作業の中から、自己の思考は、抽象的な学問である哲学より、具象的な美形式に適していることを悟ったようです。
「大阪朝日新聞」「台湾日報」の主筆を経て、「万朝報」の記者になった湖南は、ロシアの南進に対して日露戦争主戦論を展開しました。この間に中国へひんぱんに出かけ、中国の学術全般についての研究を深めていき、中国学が従来の漢学ではなく、実証学でなくてはならないと提唱するようになりました。
1907年、京都帝国大学(現・京都大学)の史学科に講師として招かれた湖南は、「東洋史学講座」を担当しました。1909年に教授、1910年には総長の推薦を受けて文学博士となり、20年にわたり文化史を中心とした東洋史の体系化を試み「京都学派」といわれる学風を形成し、京大の宝とまでいわれました。
湖南の学術論の代表的なものは、「中国史」では後漢までを古代、六朝・唐を中世、宋以後を近世とする時代区分の提唱、甲骨文による古代史研究の推進、目録学、絵画史などあらゆるジャンルに及びます。また、邪馬台国論争については、白鳥庫吉(くらきち)の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせたことでも知られています。
1926年に60歳定年制にもとづいて退官、日本文化史においても「内藤史学」といわれる透徹した体系をつくりあげた実力者でした。
「6月26日にあった主なできごと」
1833年 木戸孝允誕生…大久保利通、西郷隆盛と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。
1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。現在の加盟国は193か国となっています。