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「大政奉還」 と山内豊信

今日6月21日は、徳川家の温存を期し、15代将軍徳川慶喜に「大政奉還」を進言した土佐藩の山内豊信(やまのうち とよしげ)が、1872年に亡くなった日です。豊信は、号の容堂(ようどう)としても知られています。

1827年に生まれた豊信の生家は、山内本家の分家で、分家五家の中での序列も最下位だったため、豊信は高知城下で生まれ育ちました。13代藩主と14代藩主が相次いで急死したため、当時22歳の豊信が藩主候補となり、1848年末、山内本家の15代藩主となりました。

1853年のペリー来航を期に、豊信は藩政改革を断行しました。革新派グループの中心だった吉田東洋を新たに設けた「仕置役」に登用すると、家老を押しのけて西洋式軍備の採用と海防強化、商品流通の統制、藩士の長崎遊学、身分制度改革などを次々と打ち出しました。しかし、藩内の対立が深まったため、一時東洋を謹慎の身とさせましたが、3年後の1857年に東洋を再起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎を重用しました。

いっぽう豊信は、福井藩主の松平春嶽、宇和島藩主の伊達宗城、薩摩藩主の島津斉彬とも交流を持ち「幕末の四賢侯」と称され、老中・阿部正弘を通じ、幕政にも積極的に口をはさむようになっていました。ところが阿部の死去後に大老に就いた井伊直弼と、将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。四賢侯と水戸藩主の徳川斉昭らは次期将軍に斉昭の子一橋慶喜を推していたのに対し、井伊は紀州藩主徳川慶福を推しました。井伊は大老の地位を利用して政敵を排除したのが「安政の大獄」です。結局、慶福が14代将軍家茂となることに決まり、豊信はこれに憤慨して1859年2月に隠居願いを幕府に提出、この年の10月には幕府より謹慎を命じられました。

豊信は、前藩主の弟豊範に藩主の座を譲って容堂と改めるものの実権は握り続け、四賢侯に共通する公武合体派として、朝廷と幕府を連帯させる行動を取りつづけました。謹慎中に土佐藩では、武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、1862年5月に吉田東洋を暗殺、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握しました。1863年9月、会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのためのクーデター(八月十八日の政変)がおこると容堂の謹慎は解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握しました。容堂は、まず東洋を暗殺した土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、首領の瑞山に切腹を命じ、土佐勤王党を壊滅させました。

1866年1月、東洋暗殺の直前に脱藩していた坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介によって「薩長同盟」が成立すると、時代はいっきに明治維新へと大きく動き出しました。容堂は幕府を擁護し続けましたが、倒幕へ傾いた時代の流れを止めることは出来ません。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案(「大政奉還」)および新国家体制の基本方針「船中八策」を坂本龍馬より聞いていた後藤象二郎は、これらを自分の案として容堂に進言しました。容堂はこれを妙案と考え、15代将軍徳川慶喜に建白しました。これにより1867年11月慶喜は、「大政奉還」にふみきりました。

その後、容堂は明治新政府の議定となって、慶喜に対する厳しい処分に反対し続け、戊辰戦争後も徳川家を存続させる努力をするものの力及ばず、役職をしりぞいた3年後に亡くなりました。


「6月21日にあった主なできごと」

1793年 林子平死去…江戸幕府の鎖国政策に対して警告を発した海防学の先駆者林子平が亡くなりました。

1852年 フレーベル死去…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者フレーベルが亡くなりました。

1905年 サルトル誕生…「実存主義」を唱えたフランスの哲学者で、小説家、劇作家、評論家としても活躍したサルトルが生まれました。

投稿日:2012年06月21日(木) 05:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)