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主君を討った明智光秀

今日6月13日は、戦国大名・織田信長の重臣の一人でありながら「本能寺の変」をおこして信長を討ったものの、秀吉との戦いに敗れた明智光秀(あけち みつひで)が、1582年に亡くなった日です。

光秀の出身地は不明ですが、美濃(今の岐阜県南部)の守護土岐氏の支族として生まれたと思われます。父の死後、諸国を放浪したのち越前の朝倉氏に仕え、のちに室町幕府15代将軍となる足利義昭を通じて1568年ころから織田信長に仕え、信長が入京すると秀吉らと共に京都や近辺の政務にあたったことが文書に残されています。

光秀は、義昭と信長が対立しないようにうまく仲立ちをしたため、両者からその能力を高く評価され、1571年近江に2郡を領し坂本(大津市)に築城して「日向の守」に任じられました。やがて、義昭と信長が対立し始めると、義昭とたもとをわかち、信長の直臣となりました。1575年には石山本願寺や信長にそむいた荒木村重、また松永久秀らを攻めるなど近畿の各地を転戦、1579年までには丹波国を平定する功績を残し、近畿地方の織田大名の総合指揮権を与えられるまでになりました。光秀は、農民支配や武士をまとめる能力も巧みで、1581年に京都で行われた信長の「閲兵式」にあたる「京都御馬揃え」の運営を任されるほどでした。

いっぽう光秀は、和歌や茶道・連歌にも優れた教養人だったのと、内気な性格は、信長とは相いれないものがありました。また、丹波の有力な豪族の波多野秀治をおさえるために、自分の母と秀治とを人質交換して戦いを収めたことがありました。ところが信長が秀治を殺したことで母を殺されてしまった事件がおこり、光秀が信長をうらむ原因となったのでしょうか。1582年6月2日、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて出陣する途中、とつぜん、京都の本能寺にいた信長を襲い、自害させました。これが歴史に残る「本能寺の変」です。「ときは今 天(あめ)が下知る 五月かな」の野心に満ちた句はよく知られています。

しかし、天下をとる夢は、すぐに引き返してきた秀吉軍に「山崎の合戦」で敗れ、近江に逃れる途中、農民に殺され、その首は本能寺にさらされたのでした。光秀は、「主君を殺した逆臣(反逆者)」として歴史に名を残すことになってしまいましたが、光秀の心情を理解する人たちも多く、事件の背景がいまだにあいまいなこともあって、光秀に焦点をあてた作品が、いまも数多く作られています。


「6月13日にあった主なできごと」

1931年 北里柴三郎死去…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者北里柴三郎が亡くなりました。

1948年 太宰治死去…『人間失格』『走れメロス』『斜陽』『晩年』 などを著した作家・太宰治が、玉川上水で心中しました。

投稿日:2012年06月13日(水) 05:47

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)