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女性解放の闘士・景山英子

今日5月2日は、女性解放運動のさきがけとなった社会運動家の景山英子(かげやま ひでこ)が、1927年に亡くなった日です。

1865年、岡山藩の下級武士の娘として生まれた英子は、下級武士の例にもれず生活の糧として内職に寺子屋を開く父と、寺子屋の教師をつとめる母という教育熱心な家庭に育ちました。英子が4歳の時、明治維新の大変革がおこり、武士階級の解体により、父は巡査になるいっぽう、母は岡山県が開設した女学校の教師となりました。

15歳で小学校を卒業した英子は、母や兄の開いていた私塾を手伝っていた1882年5月のある日、18歳の英子にとって終生忘れることのできない感銘深い日が訪れました。岡山で開催された演説会に岸田俊子が、自由民権運動の弁士のなかの一人として英子の前に現れたのです。俊子の演説に触発された英子は、女性解放の大切さをさとり、翌1883年には母とともに、女性が学べるように夜間部のある私塾「蒸紅学舎」を設立しました。いっぽう、演説会を開いて「人間平等論」を力説して、女闘志と呼ばれたりしました。ところが、討論をさかんに取り入れた自由な教育法は、警察に警戒されるようになり、集会条例に違反したとしてわずか1年で、学舎は閉鎖させられてしまいました。

同年秋、上京して、自由民権運動家の大井憲太郎らに接近して運動を進めるうち、翌1885年「大阪事件」という朝鮮に政変を起こし、日本国内の改革に結びつけようという発想に基づいた事件に連座して投獄されてしまいました。まだわずか20歳だったため、「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて名をはせました。

1889年に出獄した英子は、大井と内縁関係となり、関西各地を遊説、1子をもうけましたが大井の裏切りにより離別。1892年、アメリカ帰りの自由主義者で「万朝報」記者だった福田友作と結婚し、3児を生みましたが1900年に友作と死別してしまいました。英子が「福田英子」ともいわれるのはこのためです。

1901年に女子工芸学校を設立して、自らと女性の経済的自立をめざした英子でしたが、学校の経営には失敗してしまいます。このころ堺利彦や幸徳秋水らと出会い、社会主義に近づいて「平民社」創立に参加しました。1907年には石川三四郎、安部磯雄らの協力で日本で初めての社会主義女性雑誌『世界婦人』を創刊し、主筆となって言論活動を展開しました。弾圧と生活に苦しみながらも2年半維持し、その間、女性の結社権を禁じた治安警察法5条改正を議会に請願する運動をおこしたり、田中正造を後援して足尾鉱毒事件の犠牲者となった谷中村民救済支援を続けました。

晩年の英子は生活苦と戦いながら子育てにはげみましたが、昔の同志が偉くなっていくのを見て、「男は駄目ね、位階や勲章に目がくらむから」と語ったといわれています。なお、1904年に自伝『妾(わらわ)の半生涯』を著わし、今もたくさんの人たちに読まれ続けています。同書は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「5月2日にあった主なできごと」

756年 聖武天皇死去…仏教を深く信仰し、全国に国分寺を建て、奈良の大仏を造った聖武天皇が亡くなりました。

1519年 レオナルド・ダ・ビンチ死去…『モナリザ』『最後の晩餐』など絵画の名作を描いたイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ビンチが亡くなりました。

1948年 サマー・タイムの実施…欧米の政策を採り入れて、時計を1時間早めて生活するサマー・タイムが実施されました。しかし、日本の生活習慣に合わなかったため、4年後に廃止されました。最近になって、エネルギーの節約と時間の有効活用のために、導入すべきだという声もきかれるようになっています。

投稿日:2012年05月02日(水) 05:45

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)