今日5月23日は、明治・大正・昭和期に活躍した憲法学者の美濃部達吉(みのべ たつきち)が、1948年に亡くなった日です。
達吉は、明治時代の初めの1873年、兵庫県高砂市に生まれました。父は医者でしたが、医業だけでは生活できず、町の子どもたちに、習字や漢学を教えていました。達吉は、幼いころから神童とよばれるほどの才能にめぐまれ、故郷の小、中学校を終えると東京へでて、第一高等中学校予科に学んだのち東京帝国大学(東京大学)へ入学しました。
大学では、憲法をはじめ国の法律について深く学び、将来は学者の道を志しました。しかし、大学を卒業すると内務省へつとめました。家の暮らしが豊かではなかったためです。学問をすてきれない達吉には、役人の生活はどうしてもなじめません。役人になって1年後に、夢が開けました。恩師に、大学で法政史を教える教授の候補に推せんされ、役人をやめて大学院で学ぶことになったのです。
ふたたび研究生活に入った達吉は、助教授になった26歳の年にヨーロッパへ渡り、ドイツ、フランス、イギリスで憲法や法律を学びました。そして、3年後に帰国すると、29歳で教授にむかえられました。憲法学者の道を歩み始めた達吉は、次つぎに、憲法についての論文を発表し、本を著わしました。そのなかで、社会にもっとも大きな問題をなげかけたのが「天皇機関説」です。
「国の政治は、議会を中心に、政党によっておこなわれることが正しい。国をおさめる権力をもっているのは、天皇ではなく国家でなければならない。天皇は、国家のひとつの機関である」という趣旨で、天皇をないがしろにしたわけではありません。日本における天皇の流れは尊重しながら、自由主義、民主主義を守っていくためには、天皇が自分勝手な権力をふるうようになってはいけないと考えたのです。
この「天皇機関説」は、社会に民主主義の考えがあふれた大正時代には、学者にも政治家にも高く認められました。ところが、昭和に入って、日本が大陸への侵略を始めると、軍部に反対されるようになりました。国民を戦争にかりたてるためには、天皇の絶対的な権力が必要だったためです。
達吉は、国会で「反逆者だ」とののしられても、決して自分の考えを変えませんでした。しかし、軍の力には勝てません。やがて、1935年に不敬罪で起訴されると、3年前からつとめていた貴族院議員も、いくつもの大学の講師も、やめさせられたばかりか、暴漢にピストルで撃たれ重傷を負ってしまいました。また『憲法提要』『日本憲法の基本主義』などの本も、発売禁止にされてしまいました。
その後の日本は戦争へ突っ走り、達吉は敗戦後3年目に75歳で亡くなりました。自由主義のために戦った強い生涯でした。なお、東京都知事を務めた美濃部亮吉は、達吉の長男です。
「5月23日にあった主なできごと」
811年 坂上田村麻呂死去…平安時代初期の武将で、初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂が亡くなりました。
1663年 殉死の禁止…徳川4代将軍家綱は「武家諸法度」を改訂し、古くから武士の美徳とされてきた「殉死」(じゅんし・家来などが主君の後を追って自決すること)を禁止しました。
1707年 リンネ誕生…スウェーデンの博物学者で、動植物の分類を学問的に行って「分類学の父」といわれるリンネが生れました。
1848年 リリエンタール誕生…大型ハングライダーを開発して自ら操縦し、航空工学の発展に貢献したドイツのリリエンタールが生まれました。