今日5月11日は、室町時代の武将・守護大名で、応仁の乱の東軍総大将として知られている細川勝元(ほそかわ かつもと)が、1473年に亡くなった日です。
1430年、細川持之の長男として生まれた勝元は、父の死により13歳で家督を継承しました。16歳で室町幕府の将軍(わずか11歳の第8代将軍義政)を補佐する最高職の「管領」(斯波・細川・畠山家が交代で務める)に就任すると、以後1452〜64年、1468年〜73年と通算23年間も管領職を歴任し、幕政に大きな影響力を及ぼし続けました。
当時、幕府の実力者の一人だった畠山家に対抗するため、勝元はもう一人の実力者山名宗全の娘を正室にむかえました。ところが、勘合貿易の問題から、細川と山名の対立が生じ始めると、まだ子のいなかった勝元は、宗全の末子豊久を養子にしました。ところが1466年に実子が誕生すると、豊久を仏門に入れてしまったため、両者の関係が悪化しはじめました。
1467年、畠山家に、持国の養子と実子との跡目争いをめぐる内紛がおきると、勝元は養子を推したのに対し、宗全は実子を推したことで両者の対立はいっそう悪化。さらに、足利将軍の後継者問題では、勝元が将軍義政の弟義視(よしみ)を推したのに対し、宗全は義政と正室日野富子との間に誕生した義尚(よしひさ)を推しました。義政に取り入り、畠山家の管領職を取り上げて、宗全の推す斯波家を管領に任命させたことがなどが重なり、同年5月、全国の守護大名を二手に分けた内戦「応仁の乱」が勃発しました。東軍の総大将は勝元、西軍の総大将は宗全でした。
勝元は、将軍義政から宗全追討令を受領したものの、戦況はしばらく互角、やがて東軍有利に進むものの勝負はつきません。1468年になると、勝元は義尚を、宗全が義視を支持する立場に逆転するなど、敵味方が入り混じった戦となったため、1472年には勝元は、和平交渉を試みましたが決裂、1473年3月に宗全が死去すると、その2か月後に勝元も病死してしまいました。応仁の乱は、結局1477年まで続き、この戦乱の影響で足利幕府の衰退が加速化し、守護大名に代わる戦国大名たちが入り乱れる「戦国時代」に突入することになります。
なお、勝元は幅広い趣味の持ち主で、和歌に親しみ、絵を描き、禅宗を深く信仰し、石庭で有名な京都の龍安寺を建てたことでも知られています。
「5月11日にあった主なできごと」
1891年 大津事件…日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)が琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院(現在の最高裁判所)は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。
1970年 日本人エベレスト初登頂…松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。