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激しい運命をたどった淀君

今日5月8日は、豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼を産み、秀吉亡きあと秀頼の後見人として豊臣家一族を盛りたてた淀君(よどぎみ)が、家康のはかりごとに屈し、1615年の「大坂夏の陣」に敗れて自害した日です。

1567年、近江国(現・滋賀県)の戦国武将・浅井長政と母織田信長の妹・市の長女として、小谷城に生まれた淀君(江戸時代に入ってからの呼び名で、それまでは茶々・淀殿などと呼ばれていた)でしたが、1573年に、父長政は 織田信長 に敵対して攻めこまれ、小谷城は落城してしまいます。その際、母と二人の妹ととも信長に救出されましたが、父と祖父は自害、兄は捕らえられて信長の命で処刑されました。

1582年、信長が「本能寺の変」で明智光秀の謀反で亡くなった後、母・市が織田氏家臣の柴田勝家と再婚したため、茶々は母や妹たちとともに越前国北の庄城(現・福井市)に移りました。しかし翌1583年、秀吉 と勝家が対立し、「賤ヶ岳の戦い」に勝家が敗れると、市は勝家とともに自害しましたが、茶々と妹二人は再び救われ、秀吉の保護を受けました。

その後 豊臣秀吉 の寵愛を受けた茶々は、秀吉の側室となって1589年、鶴松を生むと側室の中でも最も強い権力を持つようになり、秀吉が小田原城を包囲して後北条一族を降した「小田原の役」には茶々を従わせたばかりか、淀城を贈ったことで、茶々は「淀殿」と呼ばれるようになりました。鶴松はわずか3歳で亡くなりましたが、1593年に秀頼を生むと、秀吉世継ぎの生母としてますます権勢を誇るようになり、秀吉の死後は秀頼の後見人として大坂城西の丸に入り、豊臣氏の家政の実権を握るに至りました。

1600年、石田三成が 徳川家康 に対して挙兵した「関ヶ原の戦い」には表だった関与はしなかったものの、豊臣家の直轄領が大幅に削減されたことで家康と対立し、1614年の「大坂冬の陣」、1615年の「大坂夏の陣」で徳川勢に完敗し、大坂城は落城、秀頼らと共に自害したといわれています。こうして豊臣家は、わずか2代で終わりをつげたのでした。

なお、淀君と二人の妹は「浅井の3姉妹」として有名で、次女の「初」は近江国大津藩主・京極高次の正室、三女「江(ごう)」は徳川第2代将軍秀忠正室・3代家光の母となったことはよく知られており、そんな姉妹の激動の人生は、文学、映画、演劇などの格好な素材だからなのでしょう。高い視聴率が期待できるせいか、特にテレビドラマに登場するのをよく見かけます。


「5月8日にあった主なできごと」

1794年 ラボアジェ死去…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明し「近代化学の父」と称されたフランスの科学者ラボアジェが、ある時期に徴税請負人をしていたことでわかり、ギロチンで処刑されました。

1859年 デュナン誕生…負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家デュナンが生れました。この誕生日を記念して、5月8日は「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。

投稿日:2012年05月08日(火) 05:15

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)