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「賤ヶ岳の戦い」 と柴田勝家

今日4月24日は、戦国から安土桃山時代にかけての武将で、信長の後継争いで秀吉に敗れた柴田勝家(しばた かついえ)が、1583年に亡くなった日です。

柴田勝家の子ども時代のことは、生年も出身地もほとんどわかっていません。若いころから尾張の織田家の家臣で、織田信長の父信秀に仕え、信秀の死後に家督をついだ信長の命により、信長の弟信勝の家老として仕えました。しかし1557年ころ、信勝が信長を倒そうとする謀反を計画したとき、勝家は信長に事前に密告したといわれ、信勝は自刃に追いやられ、勝家は信長の家臣となりました。

信長の天下統一をめざす重なる戦いで、常に織田軍の忠臣のひとりとして戦功をあげるうち、信長に重く用いられるようになった勝家は、1575年に朝倉氏平定後の越前国北ノ庄(現・福井市)を与えられ、北陸地区の総司令官となりました。1580年には、数十年も勢力を誇ってきた加賀一向宗を制圧して能登・越中にも進出を果たし、名実ともに織田家の筆頭家老に昇りつめました。

1582年の「本能寺の変」で信長が亡くなったあと、織田氏の後継者問題では、信長の3男・信孝を推した勝家は、信長の孫・三法師(のちの織田秀信)を推す秀吉と対立。信長を倒した明智光秀を討伐したことで実績や発言力が大きかった秀吉の力が勝り、織田氏の家督は三法師が継ぐこととなりました。さらに信長の遺領配分においても河内や丹波・山城を増領した秀吉に対し、勝家は北近江と長浜城を得るにとどまって、勝家と秀吉の立場は逆転してしまいました。

まもなく勝家は、信長の妹で浅井長政の未亡人だったお市の方と結婚することで、秀吉との跡目争いをエスカレートしていきました。しかし、権謀術策に勝る秀吉に追いつめられ、1583年「賤ヶ岳の戦い」に敗れて、越前北ノ庄城にたてこもったものの不利を悟って、お市とともに自害したのでした。お市の3人の娘は城を出て、秀吉のもとに身を寄せ、のちに長女・茶々は秀吉の夫人の淀君に、次女・初は京極高次正室、三女の江は徳川第2代将軍秀忠正室・3代家光の母となったことはよく知られています。

なお、勝家は乱世を生き抜く鋭敏さに欠け、運にも見放された人物で、秀吉の人気の陰に隠れて評判はいまひとつですが、人間的な暖かさを持った武将という評価が与えられるようになっています。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

投稿日:2012年04月24日(火) 05:34

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)