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夭折した童謡詩人・金子みすず

今日4月11日は、大正末期から昭和初期に512編の詩を遺すものの、すい星のようにあらわれて消えた童謡詩人の金子みすずが、1903年に生まれた日です。

山口県の現・長門市に3人兄弟の長女に生まれたみすずは、幼い頃に父を亡くしたため、弟の正祐は書店を営む叔父上山松蔵と母の妹夫妻の養子となり、みずずと母と兄は叔父夫妻の世話になりました。みすずは、小学時代から成績優秀で、童謡が好きな子でした。大津高等女学校(現・大津緑洋高校)を卒業してからは、叔父の書店で働きながら、『童話』『婦人画報』『金の星』などの雑誌に詩を投稿するようになりました。

いっぽう、弟の正祐は、芸術に目覚め、みすずの詩に曲をつけたりするようになっていました。1923年ころには、雑誌『童話』の選者の一人だった西条八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛されるほど高い評価を得るようになり、若い投稿詩人たちの憧れの的となりました。

1925年、正祐に徴兵検査の通知があり、自分が養子であることを知りましたが、まだ、みすずが実の姉とも知らず、気心の知れた趣味の合う親戚として親しく付き合い続けていました。正祐とみすずの関係を心配した叔父の松蔵は、書店の番頭だった宮本啓喜とみすずを結婚させることにしました。直前になってそれを知った正祐は、女癖の悪い宮本との結婚を思いとどまるように説得しました。しかし、正祐が実弟と知ったみすずは、世話になってきた叔父の提案に逆らえず、宮本と結婚することになりました。

1926年、みすず夫妻に長女を授かりましたが、宮本の女性問題が松蔵の逆鱗にふれ、店から出て行くはめになりました。みすずは夫に従ったものの、自暴自棄になった宮本の遊郭通いはやめられず、ついには性病を持ち帰り、みすずに感染させました。さらにみすずが投稿した詩が世間に認められるのが気に入らず、詩作や投稿仲間との手紙を禁じたりするようになりました。やがて、金にも困りだしましたが、宮本の放蕩は収まりません。

ついにみすずは、娘を連れて宮本との別居にふみきり、1930年2月末に離婚が決まりました。しかし、宮本は娘の引渡しを要求、みすずは断固として応じませんでしたが、宮本もあきらめず、娘を3月10日に連れに行くと通告しました。みすずはその前夜、娘が母の寝床で眠るのを見届け、枕元に娘を自分の母に託すことを懇願する3通の遺書を置いて自殺、26年の生涯を閉じたのでした。

みすずの詩は、長らく忘れられていましたが、岩波文庫『日本童謡集』の『大漁』を読んだ児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集『金子みすず全集』3巻が1984年に出版されたのが、広く知られるきっかけでした。みすずの生誕100年目にあたる2003年には、生家跡が「金子みすず記念館」として開館しています。

なお、みすずの作品をさらに有名にしたのは、昨年3月11日の東日本大震災後、民放各社のコマーシャル自粛による差し替えで、ACジャパン制作のCMによる次のみすずの詩『こだまでしょうか』が朗読されたことでした。

「遊ぼう」っていうと 「遊ぼう」っていう。
「ばか」っていうと  「ばか」っていう。
「もう遊ばない」っていうと 「遊ばない」っていう。
 そうして、あとで さみしくなって、
「ごめんね」っていうと 「ごめんね」っていう。
 こだまでしょうか、いいえ、だれでも。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきましたが、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。


* 4月12日からプライベートで、ベネルックス3国 「オランダ・ベルギー・ルクセンブル 9日間の旅」 へ出かけるため、しばらくブログを休載いたします。次回は4月23日からの予定です。

投稿日:2012年04月11日(水) 05:36

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)