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「ロシア音楽」 を代表するムソルグスキー

今日3月28日は、交響詩『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』などを作曲した「ロシア五人組」の一人ムソルグスキーが、1881年に亡くなった日です。

1839年、ペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)に近いプスコフ州の大地主の子に生まれたモデスト・ムソルグスキーは、6歳から母にピアノを習い、10歳のときペテルブルクのエリート学校に入学して武官になる教育を受け、13歳で士官候補生になりましたが、音楽の勉強は続けました。

1856年、のちに作曲家集団「ロシア五人組」の一員となるボロディン、バラキレフ、キュイ(のちにリムスキー・コルサコフが加わります)と出会い、バラキレフの指導のもとに、歌曲とピアノ曲などの習作を手がけるようになりました。1858年に軍務を退役すると、本格的に作曲家になる決意をかためましたが、1861年、皇帝アレクサンドル2世の詔勅により「農奴制」が廃止されると、地主だった実家は大打撃を受け、下級官吏として生計を立てながら作曲を続けました。ところが、1865年に母がが亡くなると、ムソルグスキーはたび重なる不幸を嘆き、その悲しみを酒でまぎらすようになり、丈夫でなかった身体を害しはじめました。兄や妹の手助けにより、なんとか健康をとりもどしますが、代表作のひとつ交響詩『禿山の一夜』(ディズニーの『ファンタジア』に登場することでも有名) は、この頃1867年の作品です。

さらに1868年、プーシキンの戯曲や歴史物語を集め、歌劇『ボリス・ゴドゥノフ 』を書きはじめ、1872年に完成させましたが、歌劇場から上演拒否にあってしまいました。ムソルグスキーは、より大掛かりな第2稿を完成させて、マリインスキー劇場でその一部の上演が行われました。聴衆には大好評だったにもかかわらず、批評家たちが酷評したため、上演回数は10回程度でしかありませんでしたが、これによってムソルグスキーの人気は一気に高まりました。

しかし、アルコール依存症はさらに悪化し、それ以降は『陽の光もなく』『モスクワ河の夜明け』などを作曲しますが、1874年に発表された『展覧会の絵』が特に有名です。この作品は、友人の建築家で画家だったハルトマンの展覧会にヒントを得て書かれたピアノ組曲で、よく知られている「プロムナード」をはさんだ10曲の小品で構成されています。

やがて著名人のサークルと交際を始めましたが、酒量が抑えられず、1880年には公務員の地位を追われ、4度の心臓発作に見舞われて42歳で死去しました。なお、『展覧会の絵』は、のちにラベルによって編曲され、今も人気のある名曲です。


「3月28日にあった主なできごと」

1868年 ゴーリキー…「どん底」 「母」 などの作品を通し、貧しい人々の生活の中にある不安や、社会や政治の不正をあばくなど 「社会主義リアリズム」 という新しい道を切り開いたロシアの作家 ゴーリキー が生まれました。

1876年 廃刀令…軍人・警察官・大礼服着用者以外、刀を身につけることを禁止する「廃刀令」が公布されました。これを特権としていた士族の不満が高まり、士族反乱につながっていきました。

1930年 内村鑑三死去…足尾鉱毒事件を非難したり日露戦争に反対するなど、キリスト教精神に基づき正義と平和のために生きた思想家 内村鑑三 が亡くなりました。

1979年 スリーマイル島原発事故…アメリカ東北部ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、重大な原子力事故が発生しました。国際原子力事象評価尺度 (INES) ではレベル5となっています。

投稿日:2012年03月28日(水) 05:09

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)