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大塩平八郎とその乱

今日3月27日は、江戸時代後期に大坂町奉行所の与力だった陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、1837年に亡くなった日です。

江戸時代も終わりに近い1833年から1839年にかけて「天保の飢饉」とよばれる大飢饉がつづき、日本じゅうで数えきれないほどの人が死んでいきました。このとき、貧しい人びとを助けるために命をかけて戦ったのが、大塩平八郎です。

1837年、大坂(大阪)町奉行所の役人(町の犯罪をとりしまる「与力」)の子として天満に生まれた平八郎は、幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられました。25歳のころ、平八郎も与力になりました。与力は、あまり身分の高い役人ではありません。でも、平八郎は、社会の悪を正していく与力の仕事に、誇りをもっていました。武芸といっしょに学問を深く学び、とくに「正しい心のはたらきを、どこまでもつらぬきとおせ」と説く陽明学(儒学のひとつ)の教えを、心から信じていたからです。

平八郎は、むずかしい事件を次つぎに解決して、名与力と讃えられるようになりました。ところが、信頼していた町奉行の矢部駿河守がしりぞくと後任とは意見が合わず、自分も、職を子どもにゆずって、与力をやめてしまいました。まだ37歳の若さでした。

学問の道を歩み始めた平八郎は、私塾「洗心洞」を開いて人びとに陽明学を教え、自分も勉強をつづけました。そして、わずか4、5年のあいだに、『洗心洞箚(さつ)記』など陽明学をのちの世に伝えるための本を、何冊も著わしました。また自分では「心を大きくもって、うそいつわりなく生きていく」ことを守りながら、いっぽうでは幕府の政治にも目を向け、ゆがんでいる政治には、きびしい批判をつづけました。

天保の飢饉が起こりはじめたのは、平八郎が、学者の道へ入って、3年目の頃でした。平八郎は、飢え死にしていく人びとを救うように、町奉行所へ、なん度もたのみました。でも、奉行所は、なにひとつ聞き入れようとはせず、こっそり集めた米を幕府へおさめるのに、懸命になるばかりでした。くわえて商人たちは、米を買い占め、値段をつりあげるいっぽうでした。

「幕府は悪い。商人が悪い。よし、こうなれば米倉をおそえ」1837年2月、平八郎は、自分の本を全部売ってお金にかえ、そのお金を苦しんでいる人びとにすべて分けあたえると、門弟や農民たちといっしょに、ついに、反乱ののろしをあげたのです。しかし、同志の裏切りによって町奉行にもれたこともあって、わずか半日で鎮圧されてしまいました。平八郎は、養子の格之助と逃げて再起をはかるものの1か月後に見つけられて、自害してしまいました。この反乱を「大塩平八郎の乱」といいます。反乱は成功しませんでしたが、悪政を暴露して幕府の政治に大打撃をあたえるとともに、大塩の乱に勇気を得た百姓一揆や打ちこわしが、全国でおきました。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発… 松尾芭蕉 は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐ旅の日数はおよそ150日間、「おくの細道」は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1845年 レントゲン誕生…ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見した レントゲン が生まれました。

1933年 日本「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめるのです。

投稿日:2012年03月27日(火) 05:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)