今日3月21日は、平安時代初期の僧で「弘法大師」の名でしたしまれている空海が、835年に亡くなった日です。
774年、讃岐国多度郡(現・香川県善通寺市)の名門佐伯氏の子として生まれ空海は、少年時代から神童とさわがれるほどかしこく、14歳のころから都へでて母方のおじに儒教を学んだのち、17歳で、官吏になるための大学へ入りました。
ところが、自分の出世と利益のために学問をすることが、しだいにつまらなくなり、やがて、大学をやめると四国の山やまをめぐって修行をつみ、19歳で僧になりました。儒教、道教、仏教の3つを学びくらべた空海は、すべての人びとが幸福になれる世の中をつくるためには、仏教に生きる道こそ最高だと信じるようになったのです。
僧になっても大きな寺へは行かずに、ひとりで修行と学問をつづけていた空海は、804年に、最澄 とともに遣唐船で唐の国へ渡りました。
都の長安では、仏教以外にも美術、工芸、当時の科学技術、医学なども学びました。そして「いっしょうけんめいに祈れば、生きたままでも仏になれる」と教える真言密教を深く学んで、およそ2年ののちに、たくさんの経典や仏像を持って日本へ帰ってきました。
唐からもどり、仏の道をやさしく説いた空海は、密教を広めるために真言宗を開きました。809年に即位した嵯峨天皇ともまじわりが深くなり、816年には、許しをえて高野山に金剛峰寺を建てて、真言宗の聖地とさだめ、修行場としました。
空海は、唐から帰っておよそ10年のあいだは、天台宗を開いた7歳年上の最澄としたしくしました。しかし、しだいに仏教に対する考えがくい違うようになり、高野山にのぼったころには、きっぱりと別れてしまいました。
仏教をきわめるだけではなく、はば広い学問を身につけ、さらに民衆を深く愛した空海は、全国を歩いて社会のためにも力をつくしました。47歳のときには郷里の讃岐国へ行って、洪水でこわれた満濃池の堤防を、土地の人びとといっしょになって修理しました。また、54歳のときには、京都に綜芸種智院という学校を建てて、身分の高いものにかぎらず、だれにでも学問を学べるようにしました。
空海は、61歳で亡くなりましたが、死後86年たった921年に、朝廷から弘法大師の号がおくられました。空海は、文芸の道にもすぐれ、とくに書道は、この時代の三筆のひとりとたたえられたほどでした。「弘法にも筆のあやまり」「弘法筆を選ばず」などのことばが残っているのは、そのためです。
「3月21日にあった主なできごと」
1685年 バッハ誕生…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めた バッハ が生まれたました。
1972年 高松塚古墳の極彩色壁画…奈良県明日香村にある高松塚古墳石室で、千数百年前の彩色壁画が発見され、鮮やかに描かれ白虎や青竜、女子群像など4面は、国宝に指定されています。