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「大日本帝国憲法」 と井上毅

今日3月15日は、明治国家最大のブレーンといわれ、「大日本帝国憲法(明治憲法)」の基本を決定した政治家・井上毅(いのうえ こわし)が、1895年に亡くなった日です。

1844年、熊本藩飯田家の3男に生まれ、井上家の養子となった井上毅は、幼いころから秀才のほまれ高く、私塾必由堂に学び、19歳で藩校の時習館で学び、1867年藩命により江戸と長崎でフランス語を学びました。1871年に明治政府の司法省に仕官すると、翌年、法律制度取り調べのために派遣する海外調査団の一員に選抜されて、フランスとプロイセンで、憲法、法律、司法制度などを1年間調査し、プロイセン憲法がフランス憲法より優れていると判断しました。

帰国後、大久保利通 に登用され、大久保の死後は岩倉具視、さらに 伊藤博文 のブレーンとして活躍しました。特に1881年の「明治14年の政変」に際しての井上の活動は注目すべき点がありました。この政変のきっかけは、政府が1400万円もの官有物を、わずか38万円で薩長出身の政商に払い下げるというもので、これに反対する政府部内の大隈重信や大隈派の官僚たちが、薩長藩閥の攻撃をはじめました。反対勢力は、当時大隈がイギリス流の議会政治である政党内閣制を主張していたことから、「大隈は三菱財閥を背景に、福沢諭吉と組んで政府を乗っ取ろうとしている」という陰謀説を流しました。この説を信じて大隈を危険視した薩長勢力は、払い下げを中止するかわりに大隈の罷免を天皇に要求し、大隈は辞職に追い込まれるとともに、天皇は1890年を期に国会を開設するという詔勅を出しました。

この政変は、イギリス流の政治を行おうとする思想の持ち主を政府から追放し、政党政治を超越した内閣制度を前提とするプロイセン的な帝国憲法を創り上げるという方向へ導くというもので、この道を拓いたのが井上毅でした。そして、プロイセン憲法を基に、天皇の権限を大幅に認める憲法起草の方針をまとめて、右大臣岩倉具視と参議伊藤博文に提出しました。さらに、参事院や法制局で立憲政の準備のための調査にあたり、最終的には伊藤博文のもとで、伊東巳代治、金子堅太郎らと大日本帝国憲法の起草に参加します。また、皇室典範の起草にも関わったばかりか「軍人勅諭」の起草に関わり、元田永孚(ながさね)の儒教主義的な内容を、国家主義的なものに手直しを加えて原案をつくりました。

その後1890年に枢密顧問官となり、1893年発足の第2次伊藤内閣においては文部大臣を務めましたが、戦前日本の2大柱といわれる「明治憲法」と「軍人勅諭」に大きく関わったことは特筆されます。井上は、「日清戦争」のさなか52歳で生涯を閉じました。


「3月15日にあった主なできごと」

BC44年 シーザー死去…古代ローマの政治家で終身執政官となるも、「ブルータス、お前もか!」という有名なセリフを残して暗殺された シーザー(カエサル)が亡くなりました。

1928年 3.15事件…日本共産党は、第1次世界大戦後に秘かに党を結成して、労働者の政治運動をさかんに行なっていました。そして、1928年2月の第1回普通選挙で、共産党を含む無産政党から8名の当選者を出しました。これに脅威を感じた田中義一内閣は、共産党を含む左翼団体の関係者千数百名を捕らえ、治安維持法違反の罪で処罰しました。これが「3.15事件」で、これ以降共産党や労農党は結社を禁止されました。この時逮捕された徳田球一や志賀義雄らは、1945年10月にGHQの指令で釈放されるまで18年間、獄中につながれたままでした。

投稿日:2012年03月15日(木) 05:20

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)