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「院政」 と後白河天皇

今日3月13日は、平安時代末期の天皇で、34年にわたり「法皇」となって「院政」を行った後白河天皇(ごしらかわてんのう)が、1192年に亡くなった日です。

1127年、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子(しょうし/たまこ)の第4皇子として生まれた後白河は、「雅仁」と命名されました。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始されました。皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は、遊興に明け暮れる生活を送り、特に今様を愛好し、熱心に研究していました。後白河の最初の妃は源有仁の養女で、守仁親王(後の二条天皇)を生むと急死してしまいます。

1155年雅仁親王は、近衛天皇の死去により、後白河天皇として即位しました。翌年、鳥羽法皇が死去すると、後白河天皇・藤原忠通の天皇方と、崇徳上皇・藤原頼長(忠通の弟)の上皇方と対立が深まって「保元の乱」が発生しました。平氏と源氏も一族が分裂して戦うことになり、その結果、平清盛や源義朝が味方した天皇方が勝利をおさめ、崇徳上皇は、讃岐国(香川県)に流されました。乱後に、天皇の後見人だった信西(しんぜい)は政権の強化、保元新制を発して荘園を整理したり、寺社の統制・内裏再建などを行いました。

1158年、後白河天皇はわずか3年の在位のち、二条天皇に譲位し「法皇」となって藤原頼長から没収した所領を経済基盤としながら、「院政」をはじめました。これは、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の5代34年にわたって、政治の実権をにぎるスタートでした。

二条天皇が即位したことで、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つどもえの対立の様相を見せるようになります。1159年の年末に対立は頂点に達し、「平治の乱」が勃発しました。院御所は藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、信西は殺害され信頼が政権を掌握したかにみえました。ところが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破して、後白河院政派は壊滅してしまいます。

急速に勢力を伸ばした 平清盛 は、1167年に官職として最高位の「太政大臣」にのぼりつめ、勢力をほしいままにしはじめました。後白河法皇は、清盛に対抗するため、延暦寺や東大寺などの寺院勢力を動かして、京都鹿ケ谷で平氏追討作戦を練るものの失敗、清盛の反撃にあって、鳥羽院に閉じこめられ、1年半の院政停止を余儀なくされました。しかし、源頼政が兵をあげ、ついで源頼朝・源義仲の挙兵など、平氏への反撃の動きに、清盛は、法皇による院政の復活を願い出たのでした。

1183年、法皇は義仲を都に導き入れて、清盛亡き後の平氏を西国に追いやり、義仲が都で勝手なふるまいをみせると、頼朝に義仲追討を命じました。また、平氏の滅亡後は、義経に頼朝追討の院宣を出しながらも、頼朝と密かに通じて義経を追うなど、その行動には首をかしげる面が多々あります。しかし、鎌倉幕府の成立には、多くのあつれきをかかえながらも協調して、その後の公武融和を構築したこと、仏教をあつく信奉して、東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだり、蓮華王院など多くの寺院を造営したこと、今様を愛好して、当時の歌謡をまとめた『梁塵秘抄』を編さんしたことなど、大きな足跡を残しています。


「3月13日にあった主なできごと」

1578年 上杉謙信死去…戦国時代に、甲斐(山梨)の武田信玄と5度にわたる「川中島の戦い」をともに戦った越後(新潟)の武将 上杉謙信 が亡くなりました。

1813年 高村光太郎誕生…彫刻家、画家、評論家として活躍し、詩集『智恵子抄』を著した詩人 高村光太郎 が生れました。

1988年 青函トンネル開通…青森県と北海道を結ぶ全長53.85kmという世界一長い海底トンネルが開通しました。これにより、、津軽海峡を運航していた「青函連絡船」が姿を消すことになりました。

投稿日:2012年03月13日(火) 05:49

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)