今日2月21日は、長編『静かなドン』『開かれた処女地』、短編『人間の運命』などを著わし、ロシア文学の伝統をトルストイらから受け継いだ作家ショーロホフが、1984年に亡くなった日です。
1905年、南ロシアのドン・カザーク(コサック)村ビョーシェンスカヤの商人家庭に生れたミハイル・ショーロホフは、15世紀から自治と自由を守り続けたコサック社会の強い影響を受けて育ちました。中学在学中の1917年、「ロシア革命」に出会い、革命軍(赤軍)に加わって食糧調達係としてドン地方を転戦しました。
1923年にモスクワに出て、石工など肉体労働のかたわら、国内戦の経験にもとづく作品『ほくろ』を発表して文壇デビューをはたすと、『ドン物語』『るり色のステップ』を刊行して、作家としての地位を確立しました。1925年に帰郷してからは、ほとんどドンの地を離れず、主として大長編『静かなドン』の執筆に専念(1925年〜1940年)しました。コサック人の青年を主人公に、革命前後から、貧困、内乱、裏切り、信念、風習がぶつかり合う動乱時代のコサック社会の運命をリアルに描いたこの作品は、トルストイ の『戦争と平和』とならびロシア文学の双璧といわれ、ショーロホフが1965年に受賞したノーベル文学賞の原動力となりました。
ショーロホフは、1930年代の農業集団化期の農村生活を描いたもうひとつの長編『開かれた処女地』(第1部1932年、第2部1960年)や、戦争によって何もかも失った兵士の人生を描いた、次のような内容の短編『人間の運命』(1956年) を残しています。
大工だったアンドレイは、結婚して一男二女をもうけ、貧しいながらも幸せに暮らしていました。そこへ独ソ戦が始まり、アンドレイは輸送部隊の一員として出征しましたがドイツ軍の捕虜になり、収容所を転々とし、過酷な労働を強いられます。そんなある日、「1日4立方メートルの石を手で切り出すというノルマはきつすぎる」といったのを聞きとがめられ、残忍な所長に銃殺されるそうになりました。「死ぬ前に、ドイツ軍のために飲め」とウォッカを与えられたのを拒むと「では、自分の死のために飲め」といわれると、アンドレイは立て続けに3杯飲み乾し、所長は「真の兵士にして勇敢な兵士…。私も勇敢な敵を尊敬する」と、銃殺は取りやめになりました。銃殺前に堂々と強い酒を一気にあおってビクともしない兵隊は尊敬と信頼に値されたのでしょうか。その後ドイツ将校の運転手係となったのを機に、将校を人質に戦線を突破しソ連軍への帰還を果たしたアンドレイでしたが、一時休暇で故郷の町に向かったところ、空襲で家は焼け、妻と二人の娘は亡くなっていました。残る唯一の望みは息子だけでしたが、終戦を目前にして戦死。生きる希望を失ったアンドレイはトラック運転手の仕事につき、行き着けの居酒屋でボロをまとった戦災孤児ワーニャを見つけ、トラックに乗せて共に生きていくことを決意します…。
この作品は、高校時代に読んで感銘して以来再読してみましたが、隣国ロシアを理解するための最適の書だと感じました。2時間もあれば読了できる短編ですので、関心のある方は目を通されることをお薦めします。
「2月21日にあった主なできごと」
1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。
1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた 美濃部達吉 が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。
1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。