児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  歌劇王・ワーグナー

歌劇王・ワーグナー

今日2月13日は、歌劇『タンホイザー』『さまよえるオランダ人』、楽劇『ニュールンベルクの指輪』などたくさんの作品を作曲し、ロマン派歌劇の巨匠といわれるドイツのワーグナーが、1883年に亡くなった日です。

1813年、ドイツ中南部の都市ライプチヒの下級官吏の家に生まれたリヒャルト・ワーグナーでしたが、生れてまもなく父を失い、母は父の親友だった俳優と再婚しました。親類の多くが歌手や俳優で身を立てていたことで、幼いころから音楽や演劇的な雰囲気のなかで育ちました。しかし、8歳のときに義父も亡くなり、翻訳家をしていた叔父に引き取られ、叔父からダンテやシェークスピアを学びました。12歳のころから、正式にピアノを習いはじめ、15歳のとき、ベートーベンの音楽に感動し、音楽家になる決意をかためました。

1831年、ライプチヒ大学に入学して美学や音楽を学びましたが中退、数々のピアノ曲や交響曲、初めての歌劇『婚礼』を完成させたりしましたがほとんど認められず、貧困と借金に苦しみながら、あちこちを遍歴しました。そんな数年をすごしたある日、海で遭遇した暴風雨の体験から、歌劇『さまよえるオランダ人』を完成させ、1843年にドレスデンで初演されると、好評のうちにむかえられたばかりか、ドレスデン宮廷歌劇場の楽長をつとめるようになりました。1845年には、伝説的な物語をテーマにした歌劇『タンホイザー』などを発表、自ら指揮をとって公演を成功させました。

しかし、1848年にパリで起こった革命は、翌年ドレスデンにも伝わりました。ワーグナーは、社会主義的思想の「人民党」に加わったことから革命分子とみなされて逮捕されそうになり、なんとかリストの助けでスイスのチューリヒに逃れました。この苦しく貧しい亡命生活の中で文筆活動に力をそそぎ、音楽ばかりでなく、文学、演劇、美術などを同列とみなす「総合芸術」としての作品「楽劇」の理論を創り上げました。そして、1859年に楽劇『トリステンとイゾルゲ』を発表、ここには声楽と器楽が一体となった、これまでの歌劇とは異質といってよい音楽手法が用いられていました。

1868年、かねてからワーグナーの音楽にひかれていた「ノイシュバインシュタイン城」をこしらえたことで有名なバイエルン王ルートビヒ2世は、ミュンヘンにワーグナーを招いて援助するようになり、自分のオペラだけを上演する劇場を作りたいというワーグナーの夢を、1870年ドイツ中東部の都市バイロイトに実現させました。この劇場のこけらおとしに、台本着手以来23年を費やして作曲した4部作の楽劇『ニュールンベルクの指輪』を初演します。この作品は、演奏時間が15時間という超大作で、4夜にわたって上演され、序夜が「ラインの黄金」、第1夜「ワルキューレ」、第2夜「ジークフリート」、第3夜「神々のたそがれ」というもので、祝典は1か月以上にもわたり、世界じゅうからワーグナーを愛好する人々が集まり、空前の成功をおさめたということです。

1883年ワーグナーは保養のために訪れていたベネチアで心臓発作をおこして亡くなりましたが、ほとんどの歌劇台本を自ら執筆し、理論家、文筆家としても知られ、音楽界ばかりでなく他の芸術や文学など、19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした文化人の一人でした。


「2月13日にあった主なできごと」

1689年 権利宣言の承認…ジェイムズ2世の専制からイングランドを救ったオレンジ公ウィリアムと妻のアンは、即位の前に議会の立法権、課税の同意権、討論の自由などの盛りこまれた「権利宣言」を読み上げ、ウィリアム3世とメアリー2世として共同統治する文書に署名。「権利宣言」は同年12月に「権利章典」として立法化され発布されました。ジェイムズ2世の追放から二人の即位までのクーデターが無血だったことから「名誉革命」ともいわれ、「権利章典」は大憲章(マグナカルタ)・権利請願とともにイギリス国家における基本法として位置づけられています。

1840年 渋沢栄一誕生…明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した 渋沢栄一 が生れました。

1875年 平民苗字必称義務令の布告…1870年9月に農民や商人など武士以外の平民も苗字(姓)をつけるようにという布告が出ていましたが、まだつけていない者が多くいたため、この日必ずつけなくてはいけないという布告が出されました。そのため、文字も書けない人たちは、大変苦労しながら苗字を考えたといわれています。

投稿日:2012年02月13日(月) 05:01

 <  前の記事 「天保の改革」 と水野忠邦  |  トップページ  |  次の記事 機織り王・豊田佐吉  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2649

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)