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ラストエンペラー・溥儀

今日2月7日は、清朝第12代・最後の皇帝で、のちに満州国皇帝となった溥儀(ふぎ)が、1906年に生まれた日です。

清朝の第11代皇帝だった光緒帝の弟・醇親王の子として生まれた溥儀は、1908年にわずか3歳で第12代皇帝に即位しました。年号は宣統と改められ、父は溥儀(宣統帝)の摂政となりました。1911年に、孫文 らの指導する「辛亥革命」がおきると、1912年2月に退位を宣言し、267年続いた清朝の滅亡と同時に、始皇帝 以来中国の2000年余り続いた皇帝制度に終止符がうたれました。しかし、退位後も、なんとか皇帝の称号と年金を得、北京の紫禁城にすむことが許され、宮中で儒教の古典・歴史・満州語・英語を学びました。

しかし1924年、北京にクーデターがおき宮殿を追われた溥儀は、日本公使館から天津の日本租界に移って、日本の保護を受けるようになるいっぽう、当時の軍閥の大物だった張作霖にあい、ロシア人による満蒙地域奪取計画にも期待し、資金援助を行いました。

1927年、日本政府は中国に対して権益確保や日本人居留民保護を名目に山東省に出兵、満蒙を支配していた張作霖を利用しようとしました。ところが1928年6月、関東軍が張を爆殺(「張作霖爆殺事件」)したばかりか、1931年9月には、関東軍が奉天郊外で満鉄線路を爆破し、これを中国の行為だと主張し、張作霖の息子・張学良の軍隊を攻撃する事件が起こりました。これが「柳条湖事件」で、半年後には満州の主要部分を占領して「満州国」をおこしました。

1934年、溥儀は「満州国」の初代皇帝「康徳帝」となりましたが、日本軍の意向にそって、その役割を演ずるばかりでした。1941年12月8日に太平洋戦争に突入した日本軍は、1942年5月までに香港・マライ半島・シンガポール・ビルマ・オランダ領東インド諸島・フィリピン諸島などを占領しました。しかし、1942年6月ミッドウェー海戦をきっかけに、アメリカ軍は反攻を開始し、やがて日本本土に空襲をあびせるようになりました。そして1945年8月6日に広島に世界初の原子爆弾を投下、同月8日ソ連が日ソ中立条約をやぶり日本に戦線布告、9日には満州・朝鮮に侵入し関東軍を壊滅させました。長崎にも原子爆弾を投下され、敗戦の決断をのばしていた政府・軍部も8月14日、無条件降伏し翌15日正午、天皇のラジオ放送という異例の手段で敗戦を国民に知らせたことは周知の通りです。

日本の降伏と共に溥儀は、満州国皇帝を退位すると、19日に日本へ逃走する途中でソ連軍に捕えられ、ハバロフスクの収容所に送られ5年間拘留されました。この間の1946年8月には極東国際軍事裁判に出廷、「日本軍の脅迫で満州国皇帝になったもので、結託したことはない」と証言しています。

1950年に溥儀は、ソ連から中国政府に身柄が引き渡され、戦犯収容所で労働のかたわら自伝『私の半生』の執筆を始めました。1959年に特赦となって35年ぶりに北京に帰り、1967年北京の人民病院で波乱に満ちた人生の幕を61歳で下ろしました。

なお、1988年に日本で公開された映画『ラストエンペラー』は、溥儀の自伝を基に作られたイタリア・中国・イギリス合作によるもので、第60回アカデミー賞9部門(作品賞・監督賞・撮影賞・脚色賞・編集賞・録音賞・衣裳デザイン賞・美術賞・作曲賞)すべてに受賞したことで、よく知られています。


「2月7日にあった主なできごと」

1812年 ディケンズ誕生…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 などを著したイギリスのヒューマニズム作家ディケンズが生まれました。

1834年 メンデレーエフ誕生…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が生まれました。

1885年 岩崎弥太郎死去…明治の初期に海運業をおこし、船の運送にともない海上保険、造船、鉱山、製鉄、銀行、製紙など、さまざまな産業に進出し、三井財閥と並んで近代日本の産業界に勢力をほこる「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎 が亡くなりました。

投稿日:2012年02月07日(火) 05:31

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)