今日2月2日は、京都の宇治にある「平等院鳳凰堂」を建てた藤原頼道(ふじわら よりみち)が、1074年に亡くなった日です。
992年、藤原氏の勢いを最も盛んにした太政大臣 藤原道長 の長男として生まれた藤原頼道は、父の力のおかげで、20歳前後に権中納言から権大納言へ、さらに25歳のときには内大臣へと、おどろくほどの早さで出世しました。そして、内大臣になった年に、父から摂政の位をゆずり受け、2年のちには、父もならなかった「関白」の地位につきました。
頼道は、こうして27歳の若さで、天皇を助けながら国の政治をおこなう権力をにぎり、その後およそ50年のあいだ摂政と関白の地位をひとりじめして、藤原氏の権威を守りつづけるようになりました。
後一条、後朱雀、後冷泉の3人の天皇につかえた頼道は、国の政治を思いどおりに進めながら、いっぽうでは、荘園とよばれる自分の土地からばく大な収入をえて、贅沢をきわめつくした貴族生活を楽しみました。しかし、国の政治を思いどおりにおこなっても、国を改めるような新しい政治には、ほとんどとりくみませんでした。幸い、頼道が関白をつとめた時代には、安房国(千葉県)で国の役所の国府が関東武士におそわれた「平忠常の乱」を除けば、朝廷をゆるがすほどの大事件も起こりませんでした。
もともと性格がおとなしかった頼道は、父の道長が残してくれた大きな権力を守りぬくことだけで、精一杯だったのでしょう。そのうえ、頼道は、自分のむすめを天皇の妃にして皇子を産ませ、藤原氏と天皇家との強い結びつきをもたなければならないという、藤原一族のための役割をになっていました。ところが、天皇のもとへ、娘を嫁がせても、わざわざ養女を育てて嫁がせても、生まれてくるのは女の子ばかりでした。そして、ついには、藤原氏と血のつながりのうすい後三条天皇が即位して、藤原氏の運命も傾むき始めるようになってしまいました。
60歳になった頼道は、父からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」と改めて鳳凰堂を建て、阿弥陀如来像をまつって自らの心をなぐさめました。鳳凰堂は、これこそ極楽浄土だといわれるほど見事ものでしたが、頼道は、平等院に遊んでも、鳳凰堂で祈り続けても気が晴れないまま、やがて関白をやめると出家して、82歳で世を去りました。藤原氏の勢いはこうして衰えていきましたが、平等院には、藤原氏が栄えた時代の美術がたくさん残されました。
「2月2日にあった主なできごと」
962年 神聖ローマ帝国成立…ドイツ王オットー1世は、教皇ヨハネス12世より帝冠を受け、神聖ローマ帝国が成立しました。現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を含む帝国は、ナポレオンによってその名称が消されるまで、844年も存続しました。ただし大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のハプスブルク家が支配するオーストリア帝国やプロイセン王国などドイツ諸国家が成長していきました。
1848年 アメリカ・メキシコ戦争終結…1846年にテキサスの国境線をめぐる紛糾で始まった米墨両国の戦争は、この日アメリカが勝利して終結しました。その結果、ニューメキシコがアメリカの領土となりました。
1907年 メンデレーエフ死去…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成した メンデレーエフ が亡くなりました。