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日本の占領政治を指揮したマッカーサー

今日1月26日は、アメリカ陸軍の将軍で、太平洋戦争後に連合国の日本占領軍(GHQ)最高司令官となったマッカーサーが、1880年に生まれた日です。

ダグラス・マッカーサーは、軍人だった父の任地南部アーカンソー州リトルロックの兵営宿舎で生まれました。父と同じ陸軍軍人の道を歩み、1903年に陸軍士官学校をトップの成績で卒業、陸軍少尉となりました。卒業後は、アメリカの植民地だったフィリピンに長く配属されました。父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となった1905年には、マッカーサーも副官として東京で勤務する体験もしました。

その後陸軍省にもどって、極東の事情に詳しい軍人として広報班長という要職につきます。1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦した際には、史上最も若い参謀長に就任し、突撃隊を率いて果敢に戦い、負傷しながらもフランス戦線で名をあげました。戦後は、少将となって栄進を果たし、士官学校の校長に就きました。1930年には、50歳で陸軍参謀総長(大将)となって1935年に退役しましたが、独立することを決定したフィリピンに招かれて、フィリピン軍の軍事顧問に就任しました。

ところが、日米関係が悪化して1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、現役にもどって極東連合軍司令官となりましたが、日本軍の激しい攻撃にあい、フィリピンからオーストラリアに一時撤退しました。やがて島伝いに反撃に転じ、ニューギニアをへて1944年10月、フィリピンのレイテ島に上陸し、フィリピンの奪回に成功、沖縄作戦を開始しました。

1945年8月に日本が降伏すると、連合国最高司令官に任命されて厚木基地に進駐し、東京の日比谷に総司令部をおいて、日本の占領政治を担当しました。アメリカ政府の指示にしたがいながら政治犯の釈放後、戦後の日本の民主化をすすめる第1弾として「女性の解放」「労働者の団結」「教育の自由化」「専制政治の廃止」「経済の民主化」という5つの改革を指令しました。また、経済の民主化として「農地解放」「財閥解体」「独占禁止法」を打ち出しました。

さらに、国の象徴としての天皇・戦争放棄・封建制の廃止という「マッカーサー3原則」に基づいて「日本国憲法」の草案を作成しました。これにより、マッカーサーは労働者の味方と思われましたが、1947年2月1日に共産党の呼びかけでゼネスト決行を計画したところ、日本経済を破滅においやると、GHQは中止を指令。のちに、日本共産党員や同調者を公職追放する「レッドパージ」(赤狩り)を指令しています。

1950年6月に朝鮮戦争がおこると、マッカーサーは国連軍最高司令官に任命されて戦いましたが、北朝鮮を支援する中国軍の攻勢により苦戦を強いられものの、戦争継続を強硬に主張したことでトルーマン大統領と対立、1951年4月にいっさいの職務をやめさせられました。こうして、5年半近くGHQ総司令官として日本の占領政治に君臨してきたマッカーサーは、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して、惜しまれながら帰国しました。

1952年、共和党の大統領選にかつがれましたが、大きな支持を得られずに断念。レミントンランド社の会長に就任しましたが体調をくずして1964年、84歳で亡くなりました。


「1月26日にあった主なできごと」

1788年 囚人の移民…イギリスからの初めてオーストラリア移民団が、ポートジャクソン湾(現シドニー湾)から上陸しました。このうち約半数は、犯罪を犯した囚人たちでした。これにちなんで「オーストラリアの建国記念日」となりました。

1823年 ジェンナー死去…牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケを作ったイギリスの外科医 ジェンナー が亡くなりました。

1948年 帝銀事件…帝国銀行(現在の三井住友銀行)の東京豊島区にあった椎名町支店で、「近くの家で赤痢が発生したので予防薬を飲んでもらう」と偽って銀行員12名を毒殺、現金16万円などが強奪される事件がおこりました。8月になって画家平沢貞通が逮捕され、死刑が確定しましたが執行されないまま1987年に獄死。支援者はいまだに冤罪を叫び、再審請求を続けています。

投稿日:2012年01月26日(木) 05:15

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)