今日1月25日は、明治・大正・昭和の3時代にわたってジャーナリスト・思想家・歴史家として活躍した徳富蘇峰(とくとみ そほう)が、1863年に生まれた日です。
蘇峰は、肥後藩(いまの熊本県)の郷士の長男として水俣で生れました。弟は作家の 徳冨蘆花。漢学を学んだのち、熊本洋学校に入って西洋の学問やキリスト教に興味をよせるようになり、1876年に上京して官立の東京英語学校に入学しました。学校になじめないために京都の同志社英学校へ転入学し、創設者である新島襄に学びました。1877年に「西南戦争」が勃発すると、新聞の報道記事に感動してジャーナリストを志すようになります。1880年、学生騒動に巻きこまれて同志社を中途退学すると、ふたたび上京して新聞記者を志願するもののかなわず、帰郷して、燃えさかりはじめた自由民権運動に参加しました。
やがて自宅に、私塾「大江義塾」を開き、1886年の閉塾まで英学、歴史、政治学、経済学などの講義を通じて、青年への啓蒙に努めました。蘇峰は、富国強兵、鹿鳴館、徴兵制、国会開設にわきたっていた当時の日本に警鐘を鳴らすものとして注目され、さまざまな講義のテキストを著わすことで、自己の思想の基本を確立していきました。
1886年の夏、『将来之日本』の原稿をたずさえて上京、田口卯吉の「経済雑誌社」から刊行されると、「将来の日本は、生産活動にたずさわる一般市民の世の中になる」と明快に説く華麗な文は、多くの若者を魅了し、論壇デビューを果たしました。そして翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を主宰すると、弟の蘆花をはじめ山路愛山や 国木田独歩らも入社しています。1890年には『国民新聞』を発刊し、その主筆となって平民主義を掲げ、「自由」「平和」「進歩」を主張して、言論界に新風をまきおこしました。ところが、日清戦争後の「三国干渉」(ロシア・ドイツ・フランス3国が、日本領有となった遼東半島を清へ返還するよう勧告してきた事件) からは、国家主義・帝国主義・皇室中心主義をとなえ、日本の海外への侵出を正当化するように変わったため、その変節が非難されるようになりました。
1904年、日露戦争がはじまると、蘇峰は『国民新聞』をあげて桂太郎戦時内閣に協力する報道をつづけたため、一時低迷をつづけた新聞発行部数も急速に伸びていきました。ところが、戦後に講和条約が成ると、これを弱腰として非難した「日比谷焼き討ち事件」、さらに1913年に桂内閣と軍部の横暴に憤慨した「大正の政変」では民衆暴動が高まり、国民新聞社は二度も焼き討ちされて、大きな被害を受けました。
以後は、ペンによる警世の思想家として力をそそぐようになり、特に1918年ころから代表作となる『近世日本国民史』を綴るようになり、この書で1937年に学士院恩賜賞をうけ、1943年には文化勲章を受章しています。1952年まで書き続け、この歴史書は50巻もの大著となっています。
敗戦後は、戦時中に軍部へ協力し大日本言論報国会の会長を務めたことから戦犯(戦争犯罪人)容疑者に指名され、公職追放にあって逗子にひきこもり、1957年、94歳で眠るように亡くなりました。
「1月25日にあった主なできごと」
1212年 法然死去…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、南無阿弥陀仏をとなえれば、人間はだれでも来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然が亡くなりました。
1858年 御木本幸吉誕生…「真珠王」と呼ばれ、真珠の養殖とそのブランド化に成功した御木本幸吉が生まれました。
1885年 北原白秋誕生…『赤い鳥小鳥』『あわて床屋』『からたちの花』など800編もの童謡の作詞を手がけた詩人・歌人の北原白秋が生まれました。
1907年 湯川秀樹誕生…日本で最初にノーベル賞にかがやいた理論物理学者湯川秀樹が生まれました。
1957年 志賀潔死去…赤痢菌を世界で初めて発見したことで知られる細菌学者志賀潔が亡くなりました。