今日1月23日は、江戸時代初期に家康・秀忠・家光・家綱の将軍4代に仕えて、江戸幕府の土台作りに大きな貢献をした儒学者の林羅山(はやし らざん)が、1657年に亡くなった日です。
1583年、京都に生まれた林羅山(本名・信勝 羅山は号)は、幼少の頃から読書好きな賢明な子で、13歳のときに京都・建仁寺に入り、仏教を学びながら寺が所蔵する大量の書物に親しみました。僧籍に入ることを勧められましたが、1597年に家へ帰ると、独学で儒学の一派である朱子学を深くまなびました。
1604年、当時もっとも著名な儒者といわれた藤原惺窩(せいか)と論争したのがきっかけで、惺窩から精神的にも、学問的にも大きな影響を受けました。羅山の英明さに驚いた惺窩は、自身は仕官を好まなかったため、1605年に羅山を 徳川家康 に推せんすると、羅山の学識の高さを大いに評価した家康に、23歳の若さで、幕府の相談役として仕えることになりました。
家康の命で僧形となった羅山は、家康居城の駿府城(静岡)で儒学を教えるほか、駿府の書物庫をあずかって、のちの紅葉山文庫の整理をしました。1616年に家康が亡くなると、2代将軍秀忠に仕え、学問ばかりでなく、政治にも参加をするようになります。
1624年には、3代将軍家光の侍講となって、さらに深く幕府政治にかかわっていきました。朱子学を背景とした羅山の学説は、上下の身分の区別、礼儀を重要視して、社会秩序をしっかり維持することを目的としていました。これは、幕府にとって大変つごうのよいものだったため、羅山の弟子たちも幕府に重く用いられるようになりました。こうして羅山は、「武家諸法度」や外交文書の起草、伊勢神宮参拝典礼など多岐にわたる仕事にたずさわりました。
1630年には、家光から江戸上野忍岡に土地を与えられ、1632年には私塾をおこしてたくさんの門人を育てました。この私塾は、後世の昌平坂学問所の基礎となっています。こうして、羅山は知識中心の朱子学を発展させた儒学を幕府の官学として、朱子学以外は認めませんでしたが、神道は朱子学の考えとつながっているとしています。羅山はじつに博識で、学問書ばかりでなく紀行書を著すなど、文人としての活躍ぶりも多彩で、生涯に150冊もの書を著わし、歴史書としては『本朝編年録』40巻を編纂しています。これは、のちに子孫が『本朝通鑑』を完成させています。
「1月23日にあった主なできごと」
1866年 寺田屋騒動…2日前に薩長同盟を締結させた 坂本龍馬 は、宿泊先の京都・寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。
1869年 薩長土肥藩の版籍奉還…諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳、木戸孝允 や 大久保利通 らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。