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義経らにやぶれた源義仲

今日1月20日は、平安時代末期の源氏の武将で京を制圧するものの、いとこの源頼朝・義経らに討たれた源義仲(みなもとの よしなか)が、1184年に亡くなった日です。 義仲は、「木曽義仲」とも呼ばれています。

1154年、鎌倉幕府を開いた 源頼朝 らの父である源義朝の弟・源義賢(よしかた)の次男として生まれた義仲(幼名・駒王丸)は、2歳のとき、父がおいの義平に殺されたため、信濃国(長野県)木曽山中へ逃れ、中原兼遠のひごを受けて育ちました。

1180年、以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨(りょうじ)を発すると、諸国の源氏が各地で蜂起します。特にきわだったのが伊豆の頼朝と木曽の義仲でした。9月に挙兵した義仲は、父の旧領だった上野へと向かい、信濃に入りました。1181年には、木曾・佐久・上州など3千の兵を集結すると、攻め込んできた越後の豪族を打ち破ってそのまま越後に入り、信濃・越後を制圧しました。1182年には北陸に逃れてきた以仁王の遺児を助けながら西に進み、1183年5月、越中(富山県)と加賀(石川県)の国境付近の倶利伽羅(くりから)峠の戦いで、10万ともいわれる平氏の北陸追討軍を夜襲によって壊滅させました。これが有名な「くりから落とし」です。

この勝利によって勢いづいた義仲軍は、続く篠原の戦にも勝利して、破竹の勢いで京都をめざし、越前、近江に入り、7月28日京に入りました。その3日前、京の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその母建礼門院らと西国へ都落ちしました。平氏は、西国へ後白河法皇も伴うつもりでしたが、危機を察した法皇は比叡山に逃れたのち都に戻りました。そして、平氏追討の手柄に対し、義仲に高い役職と、平氏の所領だった140か所を与えました。

こうして1183年秋には、京と北陸・山陰両道をおさえた義仲、山陽・南海・西海の3道を平氏、東海・東山道2道の頼朝と、3者が天下を分けあうという情勢となりました。ところが義仲は、西国に逃れた安徳天皇にかわる皇位継承問題に口出しして、後白河法皇と対立したばかりか、義仲軍の京でのふるまいが粗暴で、暴行や略奪などを行ったために人心を失いました。そのため、公家たちの期待は鎌倉の頼朝に移りました。政略にたけた後白河法皇は、ひそかに頼朝と連絡をとりあって義仲を排除する作戦をすすめたところ、これを察した義仲は、院の御所に法皇を閉じ込めるというクーデターをおこしました。

そんな動きに対し、頼朝は弟の範頼と 義経 を義仲追討に向かわせました。義経は宇治川の戦いで義仲をやぶり、近江にのがれようとするところを、瀬田で範頼軍にやぶれ、討ち死にしたのでした。後年、義仲が葬られた義仲寺に 松尾芭蕉 が奇しくも葬られ、芭蕉の弟子が「木曽殿と背中あわせの寒さかな」と詠んだことはよく知られています。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家 ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。

投稿日:2012年01月20日(金) 06:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)