今日1月18日は、倉敷紡績(クラボウ)をはじめ、電力会社、病院、銀行等さまざまな会社の社長をつとめ、「大原財閥」を築き上げた実業家の大原孫三郎(おおはら まごさぶろう)が、1943年に亡くなった日です。
1880年、岡山県倉敷市の大地主で倉敷紡績(クラボウ)を創業した大原孝四郎の3男として生まれた孫三郎は、2人の兄が相次いで夭折したため、大原家のあと取りを期待されましたが勉強ぎらいで、教師たちから金持ちのわがまま息子といわれて煙たがられる存在でした。それでも、1897年東京専門学校(後の早稲田大学)に入学しました。ところが、ほとんど講義には顔を出さずに、吉原遊郭に通い詰めて大きな借金を抱えて父親に学校を中退させられ、地元に連れもどされて謹慎処分を受けました。
謹慎中に岡山孤児院の石井十次牧師を知り、その説教と慈善活動に感銘を受けてクリスチャンになった孫三郎は、石井のスポンサーとなったばかりか、石井の死後は同孤児院の院長になっています。後の孫三郎の理想主義的行動の出発点は、石井との出会いにありました。
1888年に倉敷紡績に入社すると、工員が初等教育すら受けていないことに驚き、職工教育部を設立。1802年には工場内に尋常小学校や倉敷商業補修学校(現在の倉敷商業高校)を設立し、働きながら学ぶ工員の教育を支援しました。
1906年、女工たちの寄宿舎内で伝染病が発生し数名を死亡させた責任を取って父が辞任すると、孫三郎は倉敷紡績の社長に就任、同時に工員の労働環境改善をはかったり、人事を刷新して独裁体制をとりました。そして、会社の利益のほとんどを、日露戦争後の増加した孤児を救うため使いました。以後、第1次世界大戦がはじまった1914年には、農業研究所こしらえて農業の改善もはかりながら企業の大拡張をおこなって、紡績業界の地位を不動のものにします。
戦争が終わると、これまでの好況から反転して景気が悪化して米の値段が急上昇しました。富山県の一漁村に端を発した「米騒動」という民衆暴動が全国に広がったことで、孫三郎は社会問題を研究する必要性を感じました。そこで、1919年に大原社会問題研究所を創立させて、マルクス経済学を研究し、貧乏人のいない理想社会をめざそうと考えました。軍国主義が強化されたため大学を追われた森戸辰男、櫛田民蔵、大内兵衛らを研究所に迎い入れたために、特別高等警察(特高)からにらまれて、世間からは「アカの巣窟」と非難されながらも、労働問題の研究につくしていきました。
1921年には労働環境改善の研究機関として倉敷労働科学研究所を開設、1923年倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立して、工員ばかりでなく市民の診療も行いました。その他、中国水力電気会社(現在の中国電力)の設立、中国合同銀行(現在の中国銀行)の頭取となるなど、地元経済界の重鎮となっていきました。
さらに1930年には、児島虎次郎に収集を依頼して、ルノアール、ピカソ、グレコらの世界的に評価されている名画を収蔵する大原美術館を開設するなど、社会事業、文化事業に大きな貢献をしました。1939年に長男の大原総一郎に企業体を引き継いで引退しましたが、そのユニークな生きざまは、後世の人たちからも賞賛の声がささげられています。
「1月18日にあった主なできごと」
1467年 応仁の乱…室町幕府の執権を交代で行なっていた斯波、細川と並ぶ三管領の一つである畠山家では、政長と義就のふたりが跡目争いをしていました。この日、義就の軍が政長の軍を襲い、京の町を灰にした11年にも及ぶ「応仁の乱」のキッカケとなりました。将軍 足利義政 の弟義視と、子の義尚の相続争い、幕府の実権を握ろうとする細川勝元と山名宗全、それぞれを支援する全国の守護大名が入り乱れる内乱となっていきました。
1657年 明暦の大火…この日の大火事で、江戸城の天守閣をはじめ江戸市街の6割以上が焼け、10万8千人が焼死しました。本郷にある寺で振袖供養の最中に、振袖を火の中に投げこんだ瞬間におきた突風で火が広がったことから「振袖火事」ともいわれています。
1689年 モンテスキュー誕生…『法の精神』を著したフランスの法学者・啓蒙思想家で、司法・行政・立法という政治の三権分立をとなえ、アメリカ憲法や「フランス革命」に大きな影響を与えた モンテスキュー が生まれました。
1919年 パリ(ベルサイユ)講和会議…第1次世界大戦後の講和会議が、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5か国が参加してパリで開催されました。講和条約の調印式がベルサイユ宮殿で行われたことから、ベルサイユ会議とも呼ばれています。この条約により国際連盟が成立することになりました。また莫大な賠償金を強いられたドイツは経済破綻をおこし、ナチス党がおこるきっかけとなりました。