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「倭の五王」のひとり仁徳天皇

今日1月16日は、第16代天皇にあたる仁徳天皇(にんとくてんのう)が、399年に亡くなったとされる日です。

大阪府堺市に、前の方は四角でうしろの方は円く、全体の長さが486メートル、前方の幅が306メートル、そのまわりに堀をめぐらした、「前方後円墳」とよばれる日本最大の墓があります。1日に1000人ずつ働いたとしても、完成までには、4年以上かかったといわれる、仁徳天皇陵です。しかし、この陵が、まちがいなく仁徳天皇の墓であるかどうかは、まだわかっていません。それは、陵の中心部のことが明らかにされていないうえに、仁徳天皇の生まれた年や亡くなった時代が、はっきりしていないためです。

のちの天皇の命によって書かれた『古事記』や『日本書紀』によると、仁徳天皇は第16代目の天皇にあたるといわれています。父は応神天皇、母は仲姫命(なかつひめのみこと)です。仁徳天皇は、たいへん慈悲ぶかい人だったといわれ、つぎのような話が伝わっています。

あるとき天皇は、難波(大阪)に建てた宮殿の高いところから、人びとの暮らしをながめました。ところが、食事のしたくをする時刻だというのに、人びとの家からは煙がたちのぼっていません。これを見た天皇は、人びとは貧しくて煮たきしたものを食べることもできないのだろうと考え、それからのちの3年間、けらいに命じて人民から税をとることをやめさせたというのです。でもこれは、天皇の徳をたたえるために、のちに作られた話だといわれています。

しかし、農業を盛んにするためには力をつくし、淀川に茨田堤(まんだのつつみ)とよばれる堤防をきずいて、河川の氾らんをふせぎ、河内(大阪)平野を広げました。また、大陸の文化を進んでとり入れることを心がけた天皇は、中国の東晋や宋の国に、何度も使者をおくったようです。そのころの中国の歴史書に、倭王がみつぎ物を持たせた使者を送ってきたことが記され、その倭王のひとりが仁徳天皇ではないかと考えられています。天皇という呼び名は6世紀ごろ生まれたもので、仁徳天皇のころは、天皇ではなく倭(日本)の国の王でした。

堺市の陵は、天皇が亡くなってからではなく、生きているうちから作られたものですが、これは、王だった天皇が、豪族をおさえた支配者の威力を示すためのものでした。しかし、慈悲ぶかいはずの天皇が、自分の墓を作るのにどうしておおくの人民を苦しめたのか、この点は疑問のままです。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡海失敗で失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官も買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家・梅原龍三郎が亡くなりました。

投稿日:2012年01月16日(月) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)